館内は、あまねく青暗かった。
 壁を覆いつくす巨大な水槽に満たされた水はその内部の人工照明の明かりによって意図的な色をつけられている。ガラス越しに見えるつくりものの海には斯く在るべしと定められた生態系が存在し、くるくる踊るように泳ぐ銀色や重たげな目をしてじっと動かない巨大魚がお互いの領分を守りながら生きることを続けていた。水の中を時折あぶくが昇る。叶絵はそれをなんとなく見送った。あぶくはぐつぐつと形を歪めながらやがて目で追えなくなって消える。その葬送にことさらの意味はない。水泡は消える。よどみない青の中で暗くなって消える。
 弥子はその青いフロアの絨毯上を泳ぐように進んだ。なめらかな足どり。水の中の魚と同じくここでの動き方を知っている、というようにツンとすました歩き方だった。
 あの頃の私たちならこんなことはありえなかった。叶絵は思う。弥子の背を嫌々ついて歩く自分など、一度たりとて想像したことはなかった。……なかったんだぞ。その憤慨はしかしもちろん届かない。すいすいと弥子はなおも泳ぎ続ける。
 いやだな。叶絵は路傍の石を蹴飛ばすような気持ちで冷たい風の噴き出している送風口を見遣った。ぼおぉぉぉぉぉ。暗い音がする。水底から響いてくるような。暗く、青い音。




    




 足元にうずくまる男がふわふわした髪をくすぐったくこすりつけてくる。猫がすり寄ってくるみたいに、叶絵はそれを変にいとしい気持ちで見下ろした。
 パイプベッドのふちに浅く腰掛けてさらした素足は我ながらによく磨かれていて、うつくしい。透きとおるような白さはなくとも腿のつけ根から爪先に至るまで不均一なところはすこしもなく肉付きから爪の形にいたるすみずみまで気を遣われている。幾重にも重ねたペディキュアはブラウンにシルバーのストライプ。昨夜時間をかけて丁寧に塗ったものだ。
 この部屋は殺風景というほど物がないわけでも整頓されているわけでもないが、来るたびにどこか淋しくなるようなつれなさを持っている。大学の教科書のほかには音楽系マガジンが何かを誤魔化すように積みあげられていて、その周りをガラクタともしれないこまごましたものが無秩序にかためている。ごまかす、というのはつまりこの男が本当にそれを読んだりなんてするのか疑わしいという意味だけれども、あえて問いただしたことはない。そういう「ふり」をすることになら叶絵にも覚えがある。ふりだってなんだって、だからどうでもいいと思う。
「痛い?」
「うん」
 男の髪は重力を感じさせない無頓着さであちこち好きなほうを向いている。茶色と黒とほとんど銀みたいな色が混ざったむずかしい絵画みたいな色彩。でもそれが男のつるりとした綺麗な顔にはよく似合っていた。少なくとも叶絵はその髪が嫌いではない。だからやわらかなそれを撫でてもやるし、気色の悪い動きをする男のてのひらを制したりはしなかった。
「傷が残ったらどうするんだよ。折角きれいなのに」
 猫のようだった男はととのった瞳を弓形に細めてそれから叶絵の臑にくちづける。恭しく両手で包んだふくらはぎを一度だけ撫ぜた。ゆら、と眩暈がやってくる。けれど押し込めた。
 ようやく満足したという顔をして男は救急箱を漁った。消毒液をとりだすと遠慮もためらいもなく赤く剥き出された傷口にそれをしたたらせる。痛い、と叶絵がうったえても男はうんと一度うなずくだけだ。血まじりの消毒液はアセロラドリンクみたいな色になりそれからやや下方で待ちかまえていたティッシュペーパーに吸いとられていく。
「本当にきれいだね」
と男がうっとりしたように言うので。
「……ねえ、あんたって変態なの」
「アハハ」
 愛してるだけ。そう言って男は笑った。

 高校を卒業して入った大学は一流とまではいかないが、それなりに偏差値も知名度もある私立校だ。叶絵の通う高校はさいわいにして進学校だったから三年のあいだに無理のない範囲で努力をすればそれはさほど難しい挑戦ではなかった。
 学生数の多いことで知られるマンモス校では同じ大学に通っているはずの旧友とはすれ違うことすらなく、彼女たちも叶絵もまたそれぞれに異なるあたらしいコミュニティ・ネットワークを築きあげていくのだろうと、それをいいかげん理解しはじめていた。むろん淋しくはあったけれど感傷にひたるような暇もない。だいたい、その程度の別れなど嫌というほど繰り返してきた。
 ……あの男に出会ったのは大学一年の秋のことだった。
 サークルの勧誘活動もひとまずは静かになり初々しかった同期たちがようやく馴染んできたころ。それは同学科の、大して親しくもない友人が持ちかけてきた話だった。曰く好きな先輩がいるのだと。そういった彼女の頬は紅潮してはいたけれど年端のゆかぬ少女というわけでもなければそれなりに経験を積んできた狡猾さと戦略めいたものを滲ませていた。今更なんだけどサークル見学付き合ってくれないかな。なぜその白羽の矢が叶絵に立ったのかは教えられずとも想像がつく。明け透けなところは彼女の長所だ。
 いいよ、と叶絵はうなずいた。叶絵の二つ返事に彼女は一瞬おどろいたように息を止めた。それは叶絵の思考を読もうとする沈黙だ。けれどすぐに彼女の目はうつくしく微笑んだ。ありがとう、と。告げた声は凛としていて、それはひどく懐かしい声だと叶絵は思った。懐かしい。けれど、その懐かしさの正体を叶絵は努めて探らぬようにした。
 そうしてやって来た新入生歓迎とは名ばかりの「お食事会」で叶絵はこの男に出会った。
 はじめまして、と言ったきりほとんど声を発さなかった痩躯の、色白い男。男ははじめからどこか宙を漂うような透明さを、こういうのも変な話だけれど、その透明さをハッキリと見せていた。曖昧で不安定で消えてしまいそうで。海月みたいな男。水の中ではゆっくりとしか進めない叶絵の横を、ふわふわと自由に漂い続ける。

「帰る」
「ああ、ん」
 唐突に言い放った叶絵を興味もなさそうに見上げて男はつまらなくうなずいた。
「なんかあんの、今日」
 眠たげな目をして眠たげな声をして。この部屋には春霞が澱んでいるみたいだ。
「弥子と約束してるの」
「ヤコ?」
「桂木弥子」
 パチ。男はおおきくまたたきをした。見開かれた瞳が紅茶色をしている。なんて綺麗なのだろう。叶絵の虹彩は暗くて、瞳孔もよくは見つけられない。それなのにこの男のそれはハッキリと見えて、大きくなったり小さくなったりするたびに叶絵は己の深いところにあるものを覗かれているような気がした。全部見えてしまっている。そう思うから叶絵はこの男と一緒にいる。たぶん、そうなのだろう。
「有名人じゃん」
「そう。いつの間にかね」
 テーブルの上に放り出されていた携帯電話を鞄に仕舞い壁に掛けたジャケットを羽織る。脱ぎ散らかした左右の靴下を拾って鏡を覗き込み髪と化粧をひと通り確かめてから叶絵は玄関に向かった。歩くと臑の傷がズクズク痛む。
「待って叶絵。俺も出る」
「待たない。早くして」
 框に坐ってブーツを履いていると部屋の奥のほうから男の立てる物音が耳に届く。部屋中に散らかっている飾り物の中から本物を選びとって拾う音。必要なものを選りだして不要なものを捨てる音。
 早くして。叶絵はもう一度男に向かって言った。

 *

「またすぐ日本を発つの」
「うん、今度はスペイン。魚介のパエリヤ、トルティーヤ、イベリコ豚にオリーブ、それからチーズと」
「わかった、わかった。ったく、相変わらずあんたは」
「変わってなくて安心するでしょ」
「……まあね」
 ゆらゆらと水が揺れて、フロアに映る影を歪めた。
 世界中を飛びまわる弥子の足は白くて細い。それは肉付きのよい叶絵のものとはまるで異なる未知の下半身だ。高校生のころからほとんど変わらない骨と皮みたいな身体を青地のマーメイドスカートがくるんでいる。たよりない細さのヒールで絨毯の上を歩いてゆく後ろ姿に叶絵はふと、あの日からすこしずつ違ってしまった自分たちのことを想った。
 弥子と会うのはほとんど半年ぶりだった。近頃は海外に出ていることも多いから自然とその間隔は長くなった。時間に比例して積もったはずの話すべきさまざまはけれど、長すぎればその分だけ忘れゆく。こうして時折会ってみても何を話していいのか分からなくなることがあるのだ。弥子の生きる舞台は叶絵の立っている場所からあまりに遠い。想像すらかたく、叶絵はそれに言い及ぶことはできない。弥子が話してくれる夢物語のようなそれらを映画でも見ているような気持ちで聞いてやるのがせいぜいだ。そしてまた、そうした物語のあとに自らの陳腐でつまらない大学生活の話などとてもする気にはなれない。弥子はそれをことさらに聞きたがったけれど。
「あの彼氏とはいつから付き合ってるの」
「前に会ったとき、あのあとすぐ」
 先の男が俺も桂木弥子に会いたいと言い出したのは正直意外だった。ミーハーなところもあるんだねと面食らって言うと、まあね、とあのへらっとした笑顔が何も悟らせないようなトーンで応えた。
 そして弥子と待ち合わせた駅まで男は本当についてきたのだ。はじめましてーと間延びした声で言って、ばかみたいな顔で弥子に握手を求める。やめてよ、と叶絵が言うと、弥子と男は顔を見合わせてちょっと笑った。このふたりは……。そのひらめきの続きを叶絵はあまり考えたくない。
「叶絵の彼氏ってなんでいつもあんな感じなの」
「あんな感じって」
「ふらーっとさ。どっか行っちゃいそうな」
 ふわふわ、海月みたいな。弥子はそれを言いたいのだろうか。
「それに、あんまり長く続かないし」
「あんたと助手さんみたいに何年も一緒にいるほうが珍しいんだよ」
「ネウロはそういうんじゃないんだって、もう」
 照れているのでも怒っているのでもない変な口調でそういう。こん。弥子はヒールの、絨毯を叩く鈍い音をひとつ鳴らした。
 ――あ、まただ。
 叶絵は小さくうつむいた。またわからなくなる。弥子が歪んで膨らんであぶくみたいに消える。青く染まった弥子の衣服や皮膚や髪から海の中を思わせるにおいがする。
 弥子。弥子。弥子。
 ヤコ……。

 *

「大学、行かないの?」
 教室の窓際の席で弥子は味気ないプリントを突き放すように見つめている。ひろびろと採られた三つの空欄には文字の一つも書かれてはいない。名前とクラスと出席番号だけを書きこんで、四つ角合わせて丁寧に折りたたむとファイルに仕舞った。
「うん。学校の勉強にも全然ついていけてないし」
 ほとんど選択を許されない進学校の中で弥子は特異なほどに成績が悪い。一年生の頃からしきりに学校を休むようになって、はじめこそノートのコピーを渡したりもしたものだったが、気がついたら取り返しがつかないほどになっていた。それでもなんとか留年だけは免れたいと言うので叶絵は学年末のたびに自分の勉強よりも時間をかけて弥子の頭に必要な知識を詰め込んだ。単に興味の問題で、弥子はそもそも馬鹿ではない。やってやれないことはなかったが、その大半が自主性に委ねられる受験勉強というものは確かに弥子に向いているとは思えなかった。
 弥子が学校を休むようになったその理由はほとんど明白だった。ちょうどその頃から、テレヴィを見ているとときどき弥子の姿を見かけた。テレヴィ映えしない素人丸出しの表情で流れる音声だけがいやに明るい、痛々しいコマーシャルだった。それから春川英輔の事件があって、シックスの事件があって、弥子の知名度はどんどん上がった。成績は底辺横這いのままだったのに、名声と誉れだけがたびたび、叶絵の耳にも届くようになった。
「それに、やりたいことも見つかったんだ。待っていてやらなきゃいけないやつがいるの。いつ会えるかはわかんないんだけど、そいつのためにも、私見ておくべきものがある。だから」
「そう」
「ん。ごめんね、叶絵」
 ごめんね、叶絵。弥子はそう言った。何に対する謝罪なのかはよく分からなかった。でもそう言った。ごめんね叶絵。ごめんねごめんねごめんね。叶絵はぎゅっと目を瞑る。いいんだよ弥子。大丈夫だよ弥子。気にしないで弥子……。
「ま、先生は反対すると思うけど頑張って。なんたって一応は進学校だからね」
「アハハ、そうだよね。うんがんばる。がんばるよ」
 弥子はそう言ってうなずき、それから窓の外をしばらく見つめた。
 叶絵の心配をよそに担任は弥子の決断に意見しなかったとあとで聞いた。はじめから半ば諦めかけていたのだろう。弥子はそれだけ、異質な存在になりすぎたのだ。「お前はいいから、やりたいようにやれ」それが彼から弥子に向けられた最後の激励と差別の言葉だった。弥子は進路指導室をあとにして、二度とそこへ入ることはなかった。
 弥子は本当に大学へは行かなかった。皆が必死に机に向かっている最中も、叶絵も一度だけ訪れたことのあるあの煤けた事務所に毎日通い、そこへやって来る人間の相手をして、大人たちと関わって、どんどん知らない生き物になろうとした。
 残された高校生活の二年間は本当にあっという間で、その思い出のほとんどに弥子の姿はない。いや、本当はきちんとそこにいたのだけれど、弥子の魂はここにはなく、一介のクラスメイトとしての、友人としての、弥子の姿はもはやどこにも存在しなかったのだ。
 淋しかった。なんて言う権利も心算もない。だってそれはそういうものだ。ずっと同じでいられるなんてそんな少女みたいなことをいつまでも思っていられるほど夢見がちな性質でもない。それは仕方のないことだ。それは当たり前のことだ。それはあり得べき未来だ。

(でも本当はね、ヤコ)
(ほんとうは、あたし……)


 *

「見て叶絵」
 足を止め、息をつまらせたように呟いた弥子はここに至るまで並んでいたどの水槽よりも明るい色調のそれを食い入るように見つめた。水槽の中にはほかのものよりも多く強い照明が入れられ内側をきらきらと光らせていた。うすい水色の箱。サンゴ礁と熱帯魚の海。水槽の横にはこう書いてある。
「グレート・バリア・リーフ……」
「オーストラリアの珊瑚帯だって。みてあの魚。ピンクと黄色だよ」
 南半球の暖かな海を現したその水槽の中には比較的小さく、そして色とりどりの魚たちが海中さながらに泳いでいた。うすい絹のようなひれがシャラシャラ音を立てそうに揺れる。いたるところから立ちのぼるあぶくの横をつい、と様々な色が横切ってゆく。ほうっと弥子は嘆息した。
「綺麗だねえ」
 くるりと叶絵を振り返り、弥子は笑ってそう言う。
「うん、弥子」
 本当にきれい。
 にわかにこの見知らぬ美しの海……水色や、ピンクや黄色や黄緑や橙のあふれる極彩色の南の海に弥子が立っているような気がして、その光景が容易に浮かび上がって、叶絵はぐっと泣きたくなった。そうだね、弥子。本当にきれいだ。
 叶絵の見たことのない景色も嗅いだことのない匂いも食べたことのない味も、弥子は全部知っている。そうしていつかきっと弥子をかたちづくるのは叶絵の知らないものごとで埋め尽くされるのだろう。そしてそれはまた、叶絵にしても同じことだ。
「弥子、」
 明るい海の前に立って、その細部や表情は暗く塗りつぶされた。大まかな輪郭だけが叶絵の目にはよく見える。長くなった髪もヒールの分だけ高くなった背丈も細いままの身体も。叶絵にはなつかしい愛すべき友の姿だ。
 だから言うべきではない。言っても虚しくなるだけだ。そんなこと全部分かっている。

 ねえ、だけど。

 弥子が見てきたもの。経験してきたこと、感じてきたもの。それらすべてを理解できるとは思ってなどいない。
 だって弥子、あんたが見てきたのはこんなに綺麗なものばかりじゃなかったよね。でもそれでも、こうしてここに立って、綺麗と言って、私に笑いかけるんだよね。
 叶絵はうつむいて目を閉じた。そうとわかっているのにもかかわらず叶絵は、弥子を取り巻く全てのものは、あのころからずっと美しいままなのだと思った。汚れや痛みや恨みや悲しみ。そういうものは弥子から常に遠く決して混じらない。ずっとずっと透明で、よく澄んでいて、壜の底みたいに懐かしくて。
(『ごめんね、叶絵』……)
 こん。弥子のヒールがまた鈍い音をたてた。海のにおいが強くなる。知らないにおい。弥子のにおい。あの背の高い男が弥子を連れていってしまったんだと叶絵はずっと思っていた。猫みたいな目をした、狼みたいに口の大きな、蛇みたいにしなる身体を持ったあの男が。弥子を遠くへ連れていってしまったんだ、と。
「でも本当は、離れてしまったのはあたしだったのかもしれない」
 喉から、搾り出したような声だった。
 それはずっと考えていたことだった。
 どうして隔たってしまったのだろう。当たり前に別れてしまったのだろう。なのにこうして、すがるみたいに約束を取り付けて時間をつくらせているのだろう。それを己ばかり願うのだろう。
 あの日言えなかったことを長い間抱えてきた。誰と触れ合っていても、ふいにそのことが頭に浮かんで消えなくなった。怒っていても、笑っていても、泣いていても、何をしていても。ねえ弥子、あのね。
「あたし、淋しかったよ」
 本当はずっと。ずっとずっと淋しかった。
 弥子が折りたたんだあの紙切れの白い色を見た日から、淋しくて淋しくて仕方なかった。
「……叶絵?」
 弥子の気遣わしげな声が聞こえた。叶絵はぶんっと顔を上げてちょっと怒ったように、震える声を張り上げる。
「あー、淋しかった! あんた全然連絡よこさないし、生きてるか死んでるかもわかんないし、危ない仕事だし、でも新聞には載ってるし」
「叶絵」
「いつも知らない国とか行ってるし、有名人だし、相変わらず食い意地はってるし、なのにやっぱり痩せてるし」
「……」
「ばか。ばーか。あほ。万年落ちこぼれ。貧乳!」
「それは余計!」
「ふん! ……バカ弥子。心配したよ」
 ひとたび面食らって、それから弥子は照れくさそうに首をすくめた。
「ん、ありがと」
「たまには連絡よこせよ」
「うん、約束する」
「あと、稼いでんだからおごれよ」
「ええ」
「弥子。ヤコ、」
「うん、叶絵」
 今日、会えてうれしかった。
 背を撫ぜる、骨みたいだった弥子のてのひらはすこしだけふくよかになっていて、吃驚するほど穏やかだった。弥子はずっとここにいて、どこにも連れていかれてなんかいなくて、ふたりを淋しくさせていたのはふたり自身だったのだと。そう、思うくらいに。

(会いたかったよ、弥子)



 *



「俺はじめて叶絵と会ったとき、手負いの猫を拾っちゃったと思ったんだ」
「なにそれ」
 男はいつもと同じようにへらりと笑って叶絵の髪をいじった。背中に残る弥子のてのひらの感覚が叶絵をずっと包んでいる。男はそれを邪魔しないくらいささやかな触れ方でやさしく叶絵に染みこんで、それから内側の弥子と同居する。
 弥子は今夜の便でもうスペインに向かうと言った。水族館を抜け、空港へ向かうタクシーに乗り込むまでの間、なんとなく気恥ずかしくてふたりはほとんど無言だった。また次はいつ会えるともわからないのに、話すべき言葉はもうどこにもないような気がしていた。
「桂木弥子といっぱい喋った?」
「まあね」
「すごいよなあ、有名人! 俺、握手してもらっちゃった」
「ああいうのほんとやめてよ」
「いいじゃんいいじゃん。折角なんだし」
「もう」
 叶絵は呆れたため息をついて、伸ばしていた膝をぐっと引き寄せた。
「なんか叶絵、機嫌いい」
「……なにそれ」
 そっぽを向いた叶絵の顔を男はにやにやしながら眺めている。
「アハハ」
 そうしてまた笑った。耳あたりのよい綺麗な、海みたいな笑い声だ。
 グレート・バリア・リーフの淡青の波によく響きそうなしゃらしゃらした声。そうだ、この男は、どこかで弥子に似ている。認めたくはなかった。けれどたぶん、そういうことだ。


「なあ叶絵。ずっと一緒にいようか」

 男はあの色素のうすい目で叶絵をのぞきこみ、叶絵の瞳孔がすこしだけまぶしさに縮まっているのを、おかしそうに笑いながら見つめていた。
 ばーか。そう答えた叶絵の声は、あのときとおんなじ、青い色をしている。