![]() 何故か無性に米が食べたくて、コンビニの棚からおにぎりを選んできた。張り込みっつったら焼きそばパンだろうが!と車内で喚く形からしか入れない不肖の先輩にはお望みのものを押し付けて、代わりにレジ袋いっぱいの食玩をゴミ箱に叩き込むのはもう随分と前から私の仕事になっている。 「張り込みじゃないでしょ、単にまともに昼食摂る時間がないだけです」 「刑事の車ん中でのコンビニ飯は大体張り込みのカテゴリーに入れて構わないと思うんだよ」 「いつものことながら何を言ってるのか全く分かりません」 (拝啓。私という人間は自分でも思った以上にままならない生き物のようです) 刑事という職業に就いた以上甘えたことを言うつもりはなかった。それでもなんとなく苛立って掻きむしった髪の感触が、我ながら水気のない傷みきった様子を伝えてくる。そういえば、非番のときに思い出したように行う化粧ののりも最近よくなかった。しかしそんなことよりもだんだん疲れが取れにくくなってることの方が大問題だ。刑事として。目の奥に綿を詰められたような重い感覚がつきまとって、書類にも集中できなくなっていた。むくんで血が通らない足をハンドル下のささやかなスペースで伸ばす。いつの間にか出来ていたストッキングの小さな穴を見つけて溜め息を零した。伝線しないタイプだが、どこかに引っ掛けて穴を大きくする前に履き替えた方がいいだろうか。 助手席の不肖の先輩がパンを頬張りながら弄る携帯の、揺れる腹立たしい量のストラップが目に入った。昔笹塚先輩に千切られて廃棄されたものの生き残りに加え新たにちまちまと買い集めたものだと自慢げに教えられた。心底どうでもいい上に、新規参入したメンバーも大量脱退させた方が笹塚先輩の供養になるような気がしなくもない。機会を窺え私。噛み付いたおにぎりの乾いた海苔の感触の小気味のよさに少しだけ奮い立つ。自分のささやかさがおかしかった。 (それなりに優れた評価は貰ってきていましたし、上からの覚えもめでたかったし、なによりあなたに褒めていただいたもので。実は今でもそれは私の誇りです。我ながら少し寂しいなぁ。) (まあその評価は何にも救わなかった、それだけの話ですね) 急に反芻してしまった苦い思い出に一瞬目を閉じる。「認めようぜ新入り」と呟く静かなこの男の声を思い返す。あのとき、不肖の先輩の顔さえまともに見ることができなかった私は磨き方の甘い靴を凝視して心中手当たり次第を罵倒していた。あの人の仇が死んだというのに何も変わらない現実に失望していた。購われないことを信じたくなかったのだと思う。 「俺みたいなボンクラと違ってお前は優秀かもしれないけどさ、それでも多分駄目だったよ」 そのときでさえこの男の声は泣いていなかった。生前馬鹿のようにあの人にべったりとまとわりついていたのが嘘のようだと思った。恐らく違うのだろう。一人で気付かれないように泣いたのか、もしくは泣きたくとも泣けずにいるのだ。 「先輩はさ、誰にも助け求めてなかったし、誰かが分かってやれるような簡単なこと、考えてなかったんだよ」 「俺らが先輩を助けられた訳がないよ」 私は何と言って、それを否定しようと無駄に叫び声をあげたのだったか。都合の悪いことだからか思い出せずにいる。そんなことなど最初からなかったようにこの男の態度は3年前から少しも変わっていないから尚更計りがたい。 だから私はこの男のことが嫌いだ。 (ええ、はい。私は元気です) 「等々力、週末暇?」 「休みは取っていますが」 「まじで、じゃあ先輩の墓参り行かね?久しぶりにビリジアン供えに行きたいし」 「嫌です」 「即決で拒否!?」 「同じ部署で同時に二人休んだら周りの皺寄せが大変でしょう」 「大丈夫だよ、俺出勤しても仕事しないから」 「何でこいつ社会人やってるんだろ」 「素が!お前今素が出てただろ!」 返答の代わりに踏み込んだアクセルで唸るエンジン音を聞く。現場は飲食店らしい。店主が厨房で首を吊っているのを店員が発見したそうだ。自殺と殺人双方を視野に入れた捜査を行う必要がある。 「そういえばさ、お前と最初に一緒に捜査したのもメシ屋じゃなかったっけ?」 「そうでしたね、先輩は相変わらず足手まといでしたけど」 「何故今余計な毒を吐いた」 3年前を思い出す。あのときはまだあの人は生きていて、濁った目をしながら職務を果たしていた。私は不必要に被疑者を挑発して死にそうになった。事件を解決したのはあの人と関わりのある、当時から有名だった女子高生探偵だった。今彼女は海外で交渉人をしていると聞く。随分長い間姿を見ていないから、もしかしたら会ってもそうとは分からないかもしれない。懐かしく思う。あと5年もすれば、私はあの人と同い年になる。未だ尊敬してやまない優秀な刑事にも、私よりずっと年下のあの偉大な探偵のようにもなれないまま私は今もここで、休みもろくにとれない物騒な日本で、頼りにならない先輩刑事と一緒に走り回っている。 (所轄の皆から、等々力は石垣のお守りだなんて言われています。全くその通りです。ところで、笹塚と同じポジションだなぁと笑われる立場になって考えたことがあります。笹塚先輩、もしかして、少しは石垣先輩の馬鹿さ加減に救われてやいませんでしたか) 「お前さ、休みとるの久しぶりじゃね?」 ストラップをいじりながら尋ねられる。 「そうですかね」 「なんかここ最近四六時中働いてるイメージ」 「先輩は常にサボってるイメージですけど」 「俺のことはいいんだよ!」 「シックス事件の頃に比べればまだ楽な方じゃないですか」 「あのときは非常事態だったろ」 あのときは、ということは今は非常事態ではないのかと改めて思い知る。いつの間にか3年も経っているのだ。訳も無くどこかに一人取り残されたような気分になって、ハンドルを握る手に力を込める。 「あれか?最近葛西善二郎の目撃情報がでてきたらしいじゃん、あんなところに落ちといてあいつ生きてたんだなぁって驚いたけどさ」 「それがなんですか」 「先輩の仇の一味っつって、血眼であいつの手がかり探してんじゃねーかと思って」 「捜査に私情を挟む訳がないでしょう」 仇を討つ為に探しているのではない。私は警察官であり、葛西善二郎は憎むべき危険な犯罪者だから探す。それでいいじゃないかと言えば言いものの、何故か上手く言葉にできずにいる。進行方向を凝視する。 「大したことじゃありません」 「そうか?無理すんなよー、お前ほっとくと勝手にどんどん思い詰めるじゃん」 「思い詰めませんよ」 分かったような口利かないでください、と口の先まで飛び出しそうになった言葉を寸での所で押さえる。エンジンが唸った。道路の傍の並木に芽吹いたささやかな薄緑が視界の端を次々通り過ぎていく。この角を右に曲がれば目的地はすぐそこにある。駐車場がなかったら、停められる所を探さなければならない。 「お前はよく頑張ってるよ」 また言うか。鬱陶しく思うが、声の調子が相変わらず真剣味のない軽いものであったから本気で嫌悪感を示すこともない。 「何を言ってるんですか」 「本当だよ。お前笹塚先輩みたいだ」 「・・・・・・」 思わず唇を結んだのが気付かれなければいい。だって、私じゃあの人を救えなかったって言ったのはそっちじゃないかと心の中で子どもじみた声がした。無力さを突き付けたのはそっちじゃないか。それなのに急にそんなことを言うのはずるい。 「そうですか」と乾いた声で返した。視線だけで伺うとこの男は何ともない顔をして前を見ている。唾を飲み込んで抑え込んだ衝動は何だったんだろう。涙だったらどうしよう。恥ずかしくて死にたくなる。ストラップ。あとで絶対に大量脱退させてやる。 (もっと有能な人間になるはずでした。あなたを死なせずにすむ正義の味方になりたかった。顔色も変えずに私を助けてみせたあなたみたいに) (その代わり私はどうやら、たいそうな皮肉ですけど、少なくともあなたより長生きしそうな気がしています。それに私には、死に急ごうとすると決まって目の前を塞いで邪魔をしてきそうな、本当に駄目な先輩もいるので) いくら走ろうと犯罪は絶えず被害者もいなくならない。死人も生き返らない。いなくなる人を引き留めることさえ、多分ままならない。それでも背後に迫る無力感から逃げるため走るしかないのだ。立ち止まったらきっと私は死んでしまう。 (私はもう大丈夫だって言いたかったんです。随分遅くなってしまいましたが、ご心配なさらず) (近いうちにまた窺います。時々お供えしてある、謎の火のついた煙草が誰の所業なのか最近知りました。笛吹警視は相変わらずお忙しそうです) 幸い駐車場はあった。現場の店の周辺にはすでに野次馬が集い始めているのをかき分けて進む。先に到着していた巡査から話を聞いていると、群衆の中からの私と先輩の名前を呼ぶ声が聞こえて振り向く。懐かしい顔が二つあった。なんだ、日本に帰ってきていたのか。顔を見てすぐに誰だか分かってよかった。確か今年で19になる世界一の名探偵と、何故かその頭を引きずって巡査の制止を押し切りこちらに向かってくる助手の姿に、急に笑い出しそうになっている。私はいよいよ疲れてるらしい。週末は久しぶりにゆっくり眠ることにする。それからお墓参りに行く。目の奥の綿もひどい隈もそうすればきっと消えるに違いない。 (報告したいことがたった今増えました。きっと喜んでいただける話題です。それまでどうぞお元気で。敬具) 古川さん、ご参加ありがとうございました!
|