トゥルルルル――。
 トゥルルルル――。

 耳の奥に響いてくる呼出音をききながら、りん子はめずらしく緊張していた。
 窓の外からレースカーテン越しに銀色の光が差し込んできて薄い色のフローリングによく反射する。その眩しさにわずかに目を細めた。耳に当てた携帯電話をにぎりなおし深く息を吸い込んだところで、呼出音が唐突に途切れる。あ、といっしゅん言葉を失い、りん子は電話を握った恰好のまま身体を硬くした。

『はい、佐隈です』

 受話口のむこうから聞きなれた――しかし電気信号に変換されてわずかにトーンの異なった、やや神経質そうな声が聞こえる。つかの間の沈黙にその人はもう一度、もしもし? と訝しげにたずねた。冷房に冷やされた空気をすうっと取り込みりん子は声を掠れさせぬよう唾をのみこんだ。
「お母さん? 私。りん子だけど」
『ああなんだ、りん子。どうしたの。何か用事?』
 なんだとは、なんだ。久々に言葉を交わす娘に向かっても母は大した感動もなさそうだ。それどころかなにか厄介ごとでも起きたのではないかと、どうやら疑っている様子である。それでようやくちょっと緊張がほぐれりん子も口を軽くする。
「用事ってわけじゃないんだけどね。ううん。いや、なんというか、ちょっと声が聞きたくなって」
『はあ? なによ藪から棒に』
 嬉しげというよりはやはりどこか不審げに母は半調声を高くする。その凛とした響きは、りん子のそれとよく似ていた。
「別に大した理由はないんだって。ただ、なんとなく」
 なあにそれ、と笑った声にりん子はちょっとくすぐったくなる。電話越しでは余計に気恥ずかしかった。
「お母さん、元気?」
 元気よ、と母は応えた。それから短く、あんたはどうなのよ、とちょっと腰を据えて話す気になったらしく受話器を持ち替えた気配がする。
『ちゃんとご飯食べてるの? 夏だからってアイスばっか食べてんじゃないでしょうね』
「なぜそれを」
『何年あんたの母親してると思ってるの。分かるわよ、それくらい』
 あはは、と笑った声は快活で、りん子はほっと胸をなで下ろす。あの幼い日、りん子を許さなかった冷えた声とは打って変わって、母のそれは美しいほどにためらいがなかった。
 陽の光があたって温かくなったベッドの上に腰を下ろす。ギッと音をたてて軋み、りん子の体重に、それはやんわりとたわんだ。

「ねえお母さん。私、元気でやってるよ」

 タオルケットの心地良い手ざわりをたしかめながら。
 そういったりん子の声は、たぶんどこか、涙に潤んでいただろう。











「でも、本当にいいんですか? わたしたちすごく迷惑掛けたのに」
 喫茶店の窓際の席で、りん子は少女たちと向かいあって座している。茶色い合皮のソファは硬くつやつやとしていて外の明るさと店内の照明とをあますことなく輝り返した。水滴がしたたるほど浮かび、テーブルの上に丸いしみをつくる三つのグラスがときおり氷を崩れさせてカランと鳴る。その清涼さをはさんで、三人は分厚くふくらんだ茶封筒を見つめた。
「いいのいいの。最終的には丸く収まったけどね、怖い思いさせちゃったし。千春ちゃんにも、鞠枝ちゃんにもね」
「わたし……?」
 不思議そうに言った鞠枝にりん子はすこし苦い笑いを向ける。正直にいうとこれはりん子の失態だから、出来ることなら蒸しかえしたくはないのだった。
「とにかくいいんだって。これは千春ちゃんがちゃんと持って帰って、ね?」
 本当は離れがたいのを悟らせぬようにして、りん子はすっと茶封筒を千春につきかえした。
 その中身を知れば誰もが驚くだろう。何でもない喫茶店の一隅で、それも若い女ばかりが三人も集まって、百万単位の金のやり取りをしているのだとはいかな名探偵とてゆめ思うまい。
 ほとんど直方体にふくらんだ封筒を千春は脇にある学生鞄に仕舞った。それはあの日――二人が依頼にやってきたあの日、千春にせっつかれた鞠枝が、事の始源たる一枚の写真を取り出した時の仕草をちょうど逆再生したような、そういう光景に思えた。ああ終わったのだとりん子は思う。ちらりと鞠枝を見やると、この少女もまた同じような潤んだ目をして千春を見ていた。
「もう具合はいいの?」
「はい。もうすっかり」
 千春はしおらしくやや赤面して応える。威勢よくふるまっていた分だけ、どうやら千春にも今回のことは失態らしく認識されているようである。たしかに肉体的にはもうどこも問題はないようだったが、なるほどこの少女から少々の勢いを削いでしまう程度には大きな出来事だったのだろう。
「それならよかった」
「本当にありがとうございました」
 深々と頭を下げると、今日はくくられていない長い髪がサラ、とこぼれる。
「佐隈さんも大丈夫でしたか。あのとき、思いきり殴られたんでしょう?」
「大丈夫、大丈夫。いやあー、ほんっと情けないよね。それこそ、鞠枝ちゃんがアクタベさんに連絡をとってくれてなかったら、どうなっていたことやら」
 もうつるりときれいに完治した頬をさすりながらいくらか自虐的にりん子は言う。
「それなんですけど……」
「ん?」
 鞠枝はためらいがちに――千春を得てふたたび大人しさを取り戻したように優美な仕草で黒髪を耳にかける。やや下方へむかって落とされた視線の先にあるものを、しかしりん子はもう、何とはなしに知っている。
「電話は通じなかったんです。いえ、通じなかったというか、出なかったんですよ。誰も」
「へ? だけどアクタベさんに、」
「そうなんです」
 鞠枝はようやく目線を上げてりん子を見た。戸惑ったような、でもどこかにいたずらっぽいからかいの色を含んでいる。鞠枝の言わんとしていることがりん子にはよく分からない。
「でも、来たんですよ。まさにわたしが電話をかけているところへ、あの人が」
「んん? それってどういう……」
 どことなく楽しげな鞠枝の言葉の意味を悟ったらしい。千春はクスクスとおかしそうに忍び笑いを漏らすと、こらえきれなくなったように鞠枝も小さく笑い、やめてよ千春ちゃん、と言った。わけがわからない。りん子はううんと首をかしげて、女子高生ってむずかしいと切なく思った。
「とにかくわたしはほとんど何も出来なかったんです」
 笑いを収めて鞠枝は言う。それからちょっと大人びた目をして。
「だからお礼は、芥辺さんに言ってあげてください」
「……? う、うん」
 今度はりん子のほうが、まるで少女にかえったように大人しくうなずいた。

 *

 散々礼を述べたあと部活動があるからと先に帰った千春のあとを追うように二人もそこそこで喫茶店を出、銀色の道を歩く。こうしているのも二回目になる。そしてたぶんこれが最後だろう。始まりと終わりに一度ずつ、そういうふうに決まっているとでもいうように。じりじりと陽炎を生む太陽が高い位置にあり、見あげれば目を焼くほどに強い光を放っていた。
 こうして並んで歩いたあの日。遠のいてゆく千春を見つめた鞠枝の瞳はひどく不安定だった。自らが突き放したはずのその背中はしかし見えなくなると鞠枝の心をかき乱す。その先にあるものが何なのか、鞠枝自身にもわかっていなかったのだ。それこそ雨の向こうを睨んだ瞳とほとんどかわらない、所在の分からないものを追いかけるような瞳。けれど今はすこし違う。その細い肩から腕から足どりから、軽やかで明確な意思がみてとれた。
「その後三崎さんは? 警察に何度も聴取はされたんだけど、アクタベさんってばまた関わるなの一点張りで。今更関わるなーなんて、そんなの無理な話なのにねえ。アレはもう意地になってるんだよ」
 ふふ、とまた鞠枝は口元に手を当ててひかえめに笑う。
「いちおう刑事事件ってことになるそうです。ストーカー行為があってからの犯行だったので、不起訴処分になることはないだろうって仰ってました。そのへんの仕組み、実はよくわかってないんですが」
「うーん。執行猶予がつくかどうかが問題だね。いっそ実刑になっちゃえばいいのに」
「ほんと、そうですね」
 鞠枝の声がすっと冷たくなった。ああ本当に、この少女は千春のこととなるとしたたかなのだ。
「でもなんで千春ちゃんがあんな目に? ストーカー被害に遭ってたのは鞠枝ちゃんなのに」
「それは千春ちゃんが話してくれました。言いたくなさそうにしてましたけどね」
「なんて?」
「あの日新宿で……わたしと別れたあと、駅で偶然三崎先生を見かけたんだそうです。それで思わず詰め寄っちゃったんですって」
「ああ、なるほど」
「ね。なるほど、ですよね。やっぱり千春ちゃんに相談するんじゃなかったって、わたしほんとうに思いました。でも」
「でも?」
 鞠枝はあわてて両手を振る。なんでもないです、と言って困ったように眉尻を下げて笑った。
「それにしても、芥辺さんって本当に容赦がないですよね……すごかったんですよ。三崎先生ふるえあがってましたもん」
「やっぱり? アクタベさんてば、何度きいてもそのへんのこと教えてくれないんだ。どうしたの? 殴る蹴るで済んでた?」
「いえ、それが殴りも蹴りもしてないんですよ。よく分からなかったんですけど、とにかく三崎先生がすっごく怯えてて。やめてくれーとかそれだけはーとか、そんなこと喚いて」
 りん子はその場面を想像してみる。光景がありありと目に浮かんだ。おそらく彼はベルゼブブの能力を行使したのだろう。なるほどあれは、何を差し置いても回避したいおそろしい暴力のひとつである。
「それでたぶんものすごく、怒ってました」
「怒る?」
「怒ってたと、思います。はじめはそうでもなかったんです。淡々となぶっていただけだったんですけど……あれは、三崎先生が助けてくれ、ってそういった時だったと思います。たしか、」
 すこし神妙な顔をして鞠枝はその時のことを回想する。
「誰に祈ってんだ、って」
「ああ」
 なるほど。りん子はすこし笑った。芥辺は本当に、どこまでも筋の通った人間だ。そして彼の本質は意外にも感情的なのだった。
「そっか、怒ってたんだ」
 妙に得心のいったようにうなずき笑うりん子に、今度は鞠枝が首を傾げる番だった。なにしろそのことはりん子だってようやく分かりはじめたばかりなのだ。彼の怒りの所以を鞠枝は知りはしないだろう。
「私もね、今回は関わるなって言われてたのに余計なことして話ややこしくしちゃったでしょ? それでスッゴイ形相で怒られちゃった」
 しかしそれを教えてやるつもりもない。それは芥辺の名誉――もとい、威厳のためでもあり、そして何よりりん子自身がそれを秘密にしておきたかったからだ。何故、と問われても、その理由までは深く考えていない。今はまだ考えたくないような、そういう気がしていた。
 こっそりとすりかわった論点に鞠枝が気付いたかどうかは不明だが彼女はこのことをそれ以上は追求しなかった。代わりにちょっと笑って、それはやはりどこか愛しいものを思い出すときのように幸福そうな仕草でぎゅうっと目を細める。そして、そうですか、とだけ短く言う。何か見透かされているような感じがしてりん子は変に焦りを覚えた。
「何にしても芥辺さんがいなければ、私たちは誰一人助かっていなかったでしょうね」
 鞠枝のその言葉に、うん、とりん子はうなずく。助かっていなかったという言葉の仔細は考えたくもなかったがそれはまったき事実であった。彼がいなければ。そしてあのタイミングで現れてくれなければ。そう考えると己の無謀で無慮で無責任な行動が今更ながらひどく恥ずかしく思えた。
 りん子はむ、と暗い顔をする。それをなぐさめるように鞠枝は、だけど芥辺さんって、とそう切り出した。
「悪い人ではないですよね。たしかに怖いけれど」
 それからりん子のほうを向いて小さく笑う。
「……あの人、少しだけ千春ちゃんに似てる」
 そうしてあまりに衝撃的なことを言うので、りん子は思わずええ? と頓狂な声を上げてしまった。それにもまた、鞠枝はふふ、と曖昧に笑って返すだけだった。
 それでは千春があんまりに気の毒ではないだろうか。りん子は眉間に皺を寄せる。鞠枝は相変わらず楽しそうにしていた。何かが吹っ切れたのか……この少女は先程からずいぶんといたずらっぽい表情をつくるようになっていた。
 そうこうしている内に二人は駅までたどりつき、鞠枝はくるりとりん子に向きあって、それから丁寧に頭をたれた。
「それじゃ、本当にありがとうございました」
 人の行き交いがふたりを避けて流れていった。人と切符を呑みこみ吐きだす自動改札の前に立って、鞠枝はもう陽炎のように揺れはしなかった。
「あのときあの事務所のドアを叩いて、本当によかった。お二人には感謝してもしきれません」
 りん子はくすぐったくなって首をすくめる。
「こちらこそ。依頼人にこんなこと言うのも変な話だけどさ、逢えてよかった」
「ふふ」
 鞠枝は照れくさそうに、けれどうれしそうに頬を染めた。その仕草が実によく似合っている。ああ、この少女はこうしているとほんとうに美しい。
「もう変なことに巻き込まれないようにね」
「アハハ、気をつけます。それじゃ佐隈さん、」
「うん」
「さよなら……」
「うん、さよなら」
 踵を返して鞠枝はりん子のもとを離れた。改札に呑まれ、すぐさま人の波に呑まれ、やがてはどこにも、もうどこにも、その姿を見つけることはできなくなった。りん子は鞠枝の消えていった改札をしばらく見つめ、まぶしげに目を細める。
 さよなら……。
 凛とした声が、耳のなかで何度も何度も木霊した。











「ただいま戻りましたー」
 暑い道を戻って事務所のドアを開くと、中からよく冷えた風がわっと押し寄せてくる。りん子はいっしゅん惚けた顔をしてその風にされるがまま包まれて、それからいそいそと後ろ手にドアを閉めた。
「おかえり、さくまさん」
 相変わらず椅子に座って文字ばかり読んでいる芥辺がちょっとだけ顔を上げ、短く言った。
「はい、アクタベさん。お金かえしてきましたよ」
「ああ」
と、これはずいぶん興味のなさそうな声である。
「ありがとうって言ってました。いいですねーたまにはキレイな仕事するのも」
「なんだ。普段の仕事に不満でもあるのか」
「イエイエ滅相もございません!」
 ふう、と芥辺はため息をついた。それからめずらしく、今日も暑いなと窓の外を見てつぶやく。りん子は何となく感動して、ええそれはもう、とあいづちを打った。それでも何か言い足りず暑さにやられてうまく働かない頭からなんとか言葉をひねりだす。そういえば、と切り出して、芥辺がすこしだけ神経を傾けてくれるのを待った。
「鞠枝ちゃんがね、面白いこと言ってました」
「なんだ」
「アクタベさんと千春ちゃんが、ちょっと似てるって」
「……」
 言葉こそなかったが、芥辺の顔は盛大にしかめられ「ハア?」という音がよく似合いそうな、なにか珍妙なものを見たような表情をしていた。それからチッ、と大きな舌打ちをして、くだらんことを言ってないで仕事しろ、といつもの口調でそう言った。
 りん子は芥辺に気付かれないように苦笑して、なるほどすこしだけ、その意味が分かったような気がした。
 これ以上話しつづけても芥辺の機嫌は悪くなるばかりだろう。りん子はおとなしく渡された仕事を受け取り、それからパソコンの電源を入れてチェアに腰掛けた。ギ、と音を立てそれがわずかにきしむ。
 きのう丸一日降りつづいた雨の名残もすっかりなくなって、空は藍に近い深青色をしていた。表は相変わらず暑かったし、それはいつもどおりの、夏の景色だった。
 ふとりん子は後ろをふり返る。中央のテーブルもソファも、いつもの芥辺探偵事務所。りん子がきた時からこの味気ないインテリア、この配置。いつか招かれたこの室内。これらの家具はたぶん十年以上も使われつづけているのだろう。そのソファの上にまぼろしを見たような気がして、りん子は動くのをやめ、それからまたたきのあいだ呼吸するのを忘れた。
「減給するぞ」
 ぼうっと室内を見つめるりん子に芥辺は脅すように言い放った。ハッとして前を向き、すみません! とりん子は慌ててキーボードを叩きはじめる。蜃気楼のように浮かび上がった幻影はその瞬間に消えてなくなり、それからもう二度と、あらわれることはなかった。
 カタカタというキーボードを叩く音とふきあがる熱風の音だけが事務所の静謐にしみいるように響きわたる。
 さよなら……。
 誰にとも、何にともなくそれを思う。眼球の上をたゆたった涙を誤魔化すようにりん子は二三度またたきをした。それから今度こそパソコンに向かい、いい加減に慣れてきた経理の表をつくりはじめる。ずらりと並んだ数字の膨大さに気が遠くなるが、それはひとつひとつ片付けていけば意外にもあっさりと終わることを知っている。
 やるか、とりん子は腕まくりをした。どうせもうすぐ、悪魔を連れて買い物に出ている光太郎たちも帰ってくる。そうしたらやかましくて集中などできやしなくなるだろう。今のうちにさっさと片付けておいたほうがいい。りん子は背筋をピンと張りなめらかに手を動かす。

 入道雲が陽をさえぎって、室内は一瞬だけ暗くなる。しかしりん子はすべる手を止めなかった。外ではまだ夏を謳歌する蝉の鳴き声が、わんわん、わんわんと、いつまでもいつまでも鳴り響いている。そしてりん子の耳にそれが時折、まるで遠い雷鳴のように聞こえるのだった。





(完)