――ロリんぼ。その玩具めいた、巫山戯た通称を知らないものはこのあたりにはひとりだっていなかった。 りん子も知っていた。りん子のクラスメイトも、その保護者も、彼のことはみんなよく知っていた。 ロリんぼはいわゆる変質者だ。脳に障害があるとか精神に異常があるとか、本当のところを確かめた者は一人もいないが、とにかくちょっと頭の狂しいイカれたおじさんだと誰もが認識していた。彼は有名な変質者だったのだ。 どうして警察に連れていかれないのかしら、と言う大人がある。もしかしたら子を持つ親のほとんどがそう思っていたのかもしれない。けれどそのうちのほとんど誰もが”通報”という発想を持たなかった。ロリんぼは野放しにされ、それで今日もどこかで誰かの口先に、その名前をささやかれた。 そんなある日のことだ。それでも対策を求める親たちがいたのだろう。学校で不審者に関する情報と、それを注意喚起する内容のプリントが配られた。 保護者各位。向暑の候、保護者の皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。そう前口上を置かれた書面のことばの、多くはりん子には理解できなかった。しかし要するにそこにはロリんぼのオジサンと皆が称している変質者に関する情報と、児童の安全確保を求める内容が記されていたらしい。登下校時を除いては学校の門を閉める旨、その上で児童の行動にはよく気をつけてほしいと、書面はそう訴えていた。まったく今更のことであると誰もが感じるような、そういう内容だった。 みんな知っていたのだ。とてもよく知っていた。彼がロリんぼと呼ばれていることも、警戒すべき対象であることも、またどういうことを、しようとするのかということも。 被害に遭う子供の多くは近くの小学校に通う女子児童だった。稀に見目のいい男児がその手に捕まることもないわけではなかったが、ほとんどはそうだった。 まず、ロリんぼはあらわれる。大人たちの目を盗み、どこからともなく、ほとんど肌着を身につけただけの姿であらわれる。そして近づいてくるのだ。それは優しげな言葉で話しかけながらであることもあったし、何事かよくわからない言葉を叫びながらであることもあった。後者であれば大抵子供たちのほうが逃げ出したので、問題は前者、単なる子供好きの、気のいいオジサンのような顔をしているときのことで、少女たちは訳もわからぬうちにその手にかかっているのだった。 ロリんぼのすることはほとんど決まっていて、つまりは衣類の隙間や、あるいはそれらを脱ぎ去ったところから男性器を見せつけることだった。 ――いい子だねえ。よしよし、ほうら見てごらん。 彼はちょっと困ったような、甘い甘い顔をして少女たちの身体を撫でながら、決して逃げぬように手足を捕まえそれをおこなった。 くろぐろとし、見たこともないような悪意に怒張したそれ。当然、少女たちは悲鳴をあげる。 ――やめて、おじさん! 怖い、気持ち悪い、見たくない。放して、離して、はなしてよ。 そして力のかぎり暴れるだろう。その腕から逃れようとし、あるいは大声で周囲に助けをもとめようとした。 不思議なことにそうするとロリんぼはかならず彼女たちをいとも簡単に解放した。驚くほどあっさりと掴んでいた手を放すのだ。少女たちはぽかんとして、それから一目散に逃げ去り、そのおぞましい手のうちからのがれた。 それがロリんぼと呼ばれるオジサンのすべてだ。少女たちは傷付くが、だからといって何かを”される”わけではない。そうであるからこそ、彼は見逃されていた。野放しにされていた。半ば許されていたのだ。 りん子がロリんぼに初めて遭遇したのは、夏休みに入る直前の七月半ばのことだった。 あの頃、クラスのいじめっ子から不幸にも”気に入られて”いたりん子は、その日もしつこいくらいにまとわりつかれからかわれていた。下品な言葉を投げかけられ、馬鹿にしたように笑い飛ばされ、何がそんなに楽しいのかと思うほど彼らはそれに熱中していた。 その日もそうだったのだ。家へ帰る途中の公園で彼らは執拗にりん子をからかった。うんざりしてもうやめてよと何度もくりかえしたが、そうするほどに彼らは増長した。 そしてそこへ、ついにやってきたのだ。ロリんぼは彼らを殴り飛ばさん勢いで近づいてきた。りん子も彼らも同じようにぎょっとして目をみはった。あれはロリんぼだと、姿を見たことはなかったが誰もが即座にそう判断した。 くぉら、クソガキども、なにしてる! ロリんぼは手にしたビニル傘を振り回しながら走り寄ってきたので、当然彼らは一目散に逃げていった。 「うわあ、来た。ロリんぼだ!」 その言葉をもっとよく、ちゃんと聞いておけばよかったと。りん子は後に思うことになる。 ちりぢりに消えていった少年たちのことを、りん子は追いかけなかった。そのどさくさに紛れて自分も逃げてしまえばよかったのに、そうしなかった。りん子は振り返ってはいけないその男を、振り返ってしまった。 「いい子だねえ。よしよし」 ロリんぼはお決まりの言葉をいった。ああ、捕まってしまったとりん子は思ったのに、不思議なこともあるものだ。彼はそれから二三度りん子を撫でただけで、衣服の下から何かを取り出したり、見せつけたりはしなかった。 なあんだ、とりん子は思った。このオジサンのことはみんなが悪く言っているだけで、本当は変質者なんかじゃなかったのだ。見た目がちょっと悪くて、服装がちょっとだらしないので、ある事ない事吹聴されていたのだ。そうしてあんなふうにプリントに載るくらい有名になってしまったのだろうと、りん子は拍子抜けして思った。 「ありがとう、オジサン」 りん子は言った。助けてくれたロリんぼに向かって、多分笑って、そう言ったと思う。 それからロリんぼは、よくりん子の前にあらわれた。それは決まってあのいじめっ子たちにからかわれているときで、ロリんぼはいつもりん子を助けてくれるのだった。 ――コラァ、お前たち、なにしてる! ――よしよし、りん子ちゃん、いい子だねえ。 ロリんぼはそういった。いい子だねえ、と、そしてりん子の頭を、肩を、腕を撫でる。りん子は黙ってそれをされていた。 ああそうだ。もっとちゃんと話を聞いておけばよかったのだ。先生の朝礼も、大人たちのささやきも、クラスメイトの噂話も。もっとちゃんと聞いていれば、信じていれば。……そうすれば、あんなことにはならなかった。 さくまのやつがロリんぼとなかよくしてる。 りん子をよくからかったいじめっ子のひとり――小山がクラスの担任にそれを告げ口したのは、いつも追い払われることへの腹いせだったのかもしれないし、あるいは本当にりん子を気遣ってのことだったのかもしれない。本当のところは分からないが、とにかくりん子は先生に呼び出され、きつくきつく叱られた。それから母親に連絡され、家に帰ると母からも同じように叱られたのだ。 「あの人がどういう人か知っているでしょう」 「でも、私はなにもされてないよ」 「言うことを聞きなさい。いいわね、次遭ったら絶対に逃げなさい。振り返ったり、言葉を交わしたりしたらダメよ。とにかく逃げるの。それから家に帰ってきて、すぐお母さんに言いなさい」 そう母は言った。いつもりん子を叱るときのようにヒステリックにではなく、どこか泣きそうな声だった。それからりん子を抱きしめて、絶対によ、と念を押す。あんまり悲しそうな声だったので、りん子まで悲しくなってくる。 「はい、おかあさん」 だからりん子はうなずいた。素直に、言うことを聞こうと思った。 ロリんぼのオジサンとなかよくすることはおかあさんを悲しませること。だから、もうあの人と話したりしてはいけない。いじめられても、もう、助けてもらってはいけないのだと、りん子は思った。 ……けれどそう思うのが、少し遅かった。 もう、遅かったのだ。 先生と母親に叱られて以来、何故か小山たちはりん子をからかうのをやめた。学校では相変わらず意地悪だったが、ひとたび校門を出ると絶対に、りん子を追い回したりしなくなった。りん子は毎日まっすぐ家へ帰り、心配する母に、今日もオジサンにはあわなかったと報告した。 夏休みに入ると、小山たちともロリんぼともあうことはなかった。友達と宿題をやりに図書館へ行ったりプールへ行ったりして過ごす間にりん子は彼のことを忘れ、もう遭うことはないのだろうと、そう思っていた。 あれは夕方。クラスメイトの女の子たちと公園で遊んだ日。 陽が暮れはじめもう帰ろっかと誰かが言ったので、それぞれ家が近いもの同士でまとまって帰ることになった。偶然その場にりん子と同じ方向の子はおらず、りん子は公園で別れてひとり帰路をたどっていた。 東の空は徐々に藍に染まりはじめていたが、道はまだ明るく、街灯も点いてはいなかった。だんだんと長くなってゆく影がおそろしくてりん子は駆け足になる。夕方とはいえまだ気温も高く、小走りになるとそれだけで汗が浮かんだ。 そして、りん子は出遭ったのだ。角を曲がった先に、ロリんぼはいた。 「お、オジサン」 突然のことだったので、りん子は反射的にそう呼んでいた。そしてすぐさま母との約束を思い出し、アッと口をふさぐ。 「り、りん子ちゃん……」 それでもりん子はまだ、ロリんぼは皆が言うような変質者ではないのだと思っていた。それどころか、自分だけが真実を見抜けている、その事実に陶酔してすらいた。 なのにどうだろう。この時のロリんぼはかつての彼とはどこか違っていた。いつもと同じように表情は笑顔だったが、その目が、笑っている目が、ほほえみよりも愉悦にゆがんでいた。 「りん子ちゃん」 おかしい、とすぐさま思った。しかし何故か身体がすくんで動けない。口をふさいだ恰好のまま身じろぎもしないりん子にロリんぼは近寄ってきた。 「久しぶりだねえ、りん子ちゃん。よしよし、ほうら……」 そうしてりん子の目の前でかがみ、その両腕を掴んだ。ヒッと小さく悲鳴がもれ、りん子はその腕を振り回そうとするが、しかし掴まれた手首はびくともしなかった。おかしい、おかしい、おかしい。何かがおかしい。徐々に音を高くして胸の鼓動が警鐘を鳴らす。おかしい。にげなきゃ。でも、掴まれた腕が動かない。 「……見てごらん……」 ああ、とりん子は絶望に似た気持ちを抱いた。真っ赤に染まった夕日が影を濃くしてはいたが、それは確かにりん子の目に飛び込んできた。 ロリんぼは履いていたたった一枚の下着――この瞬間まではズボンなのだとりん子は思い込んでいた――を膝まで下ろし、そのくろぐろとしたものを露にさせていた。けがらわしいものを、おぞましいものを、暴力的なものを、ロリんぼはその下半身に持っていたのだ。りん子を助けてくれたあの時からずっと、持っていたのだ! (うそつき!) りん子はロリんぼにそう言ってやりたかった。騙された、欺かれた、嘘をつかれた。恨みがましい目でキッと睨むと、しかし彼はそれすらも恍惚とした瞳で受け止め、それから掴んだりん子の腕を無理矢理に、その場所に持っていこうとしたのだ。 「いっ、いやだいやだいやだ! やめて、やめてよおじさん、やめて!」 ロリんぼに拒絶の言葉を投げつけたのは、この時がはじめてだった。りん子は力のかぎりに身体をばたつかせどうにかしてその拘束から逃れようとする。多くの少女がそうしたように。 ロリんぼの強い腕は、しかし意外にもあっさりとほどけた。それもまた話に聞いていた通りの行動だった。突然の解放にひゅんっと倒れそうになった身体をかろうじて支え、そしてりん子は踵を返して力いっぱい走って逃げる。 (本当だったんだ!) 赤い夕暮れの中で、りん子は一番にそれを思った。悔しくて悲しくて目尻に涙が浮かんでいた。 本当だったのだ。みんなが言っていたのは、真実だった。間違っていたのは、知らなかったのは、見抜けていなかったのは、りん子だけだった。 りん子は走った。走って走って、でもロリんぼが追いかけてくるかもしれないと思うと、立ち止まることも振り返ることもできなかった。来た道を戻っているから、りん子の家は遠ざかっていく。それでも引き返すことはおそろしい。どこに逃げればいいのか、それすらもわからない。 公園まで戻りきろうというところで、りん子はその男に声をかけられた。 「きみ、大丈夫?」 あまりに突然のことだったのでびっくりしてしりもちをつく。 疲れがたまって足はもつれ、息も切れて体中に汗をかいていたりん子は、思わず声のほうをふり返ってしまった。すると男は、その尋常じゃない様子に気がついたのか怪訝そうな顔をして取り出したタオルでりん子の額をぬぐってくれた。 「どうしたの」 「おじさん、ロリんぼのオジサンに、お、追われてるの」 「ろりんぼ?」 間の抜けた耳慣れぬ響きに男は首を傾げる。それでもりん子が振り返り振り返りしているのを見かねてか、男はりん子の手をとって、それじゃあとりあえずうちにおいでと、言った。 りん子はロリんぼから逃げ切れるのなら何でもいいとすら思った。あのおぞましいものを見なくて済むのなら、母との約束を破らずに済むのなら、何でもいいと。だから迷わずうなずいて、男に手を引かれるままついていった。……ついていってしまったのだ。 男は三十そこそこの、黒い髪をしたこれといって特徴のない姿をしていた。清潔な服をまとい、際立つところのない造作をもち、平坦な喋り方をする、特別なくらいに普通の男だった。じれたように小走りになるりん子を宥めすかす言葉遣いも丁寧で、それからたどり着いた男の住処らしい家もまた、ひどく見慣れた風景の中にとけこんでいた。 りん子はその、大きくもなく小さくもなく、新しくもなく古くもない、ごくごく一般的な一軒家に上がると客間らしい畳の部屋に通された。かたい畳は全部で十枚ほど敷き詰められ、それこそ広くも狭くもない和室だったが代わりに家具が中央の卓袱台ひとつきりだったので、うんと静かでうら寂しく見える。 「怖かったね、もう大丈夫だよ」 男はなぐさめるようにりん子の頭を撫でた。その手つきはどこか執拗で髪の筋を少しだって乱すまいとする局所的な気遣いが感じられた。 障子の向こうから西日が入ってきている。畳の目を一本一本念入りに焼くようにそれはじりじりとゆっくり傾ぐ。思い出したようにぶわっと背中に汗が滲んだ。 男はりん子を部屋に残し、ちょっとここで待っていてね、動いたらいけないよ、と厳しく言い置いて襖を閉じた。りん子は呆然とし、そのむっとする室内の空気をどこかに逃がそうと障子に手を掛けた。 ところがハッとしてすぐにその手を引っ込める。相変わらず滲みつづける汗が気持ち悪かったが、けれどその障子を、開けることは出来なかった。 ……まだいるかもしれない。そう思ったのだ。 ロリんぼのオジサンが、りん子を追いかけてきているかもしれない。このあたりにいるかもしれない。りん子を捜して、彷徨いているかもしれない。そう思うと怖くて外をのぞくことすらできなかった。 りん子は障子の反対側の際に寄り、じっと息を潜めるようにして動かなかった。見つかったら今度こそ終わりだ。捕まって、食べられてしまうかもしれない。暑さのせいか恐怖のためか、だらだらと流れてやまない汗を手の甲でなんども拭いながらりん子は息を押し殺していた。あのおぞましい感覚が胸を灼き身体をカッと熱くする。うらぎられた、と。りん子は立てた膝に顔をうずめて小さく呟いた。 と、そこへ襖が開いてあの男が戻ってきた。りん子はほっとして男を見上げる。男はお待たせと言って手に持っていた盆を卓袱台に下ろした。 盆の上にはたっぷりの氷と麦茶の入ったグラスがふたつあった。カラン、と氷の崩れる音がして急激に喉の渇きを覚え、吸い付けられるように中央へ這い寄る。 「のど、乾いたろう?」 りん子はうなずいた。男が盆からそのグラスを下ろすのを待ちきれず手を伸ばして受け取ろうとする。 「あっ」 しかしグラスはりん子の手中におさまる前にぐらりと傾いて卓袱台の上に転がった。冷たい液体が卓袱台のニスの上をすべり、畳に落ちて濃い色のしみをつくる。その一部がりん子の履いていた靴下やスカートにもこぼれた。 「ああ、大丈夫? 濡れちゃったね……」 濡れてしまったことよりも、りん子は麦茶を無駄にしてしまったことのほうがショックだった。咄嗟に台の上の水分をかき集めようとし、けれども男にそれを制される。 「いいよいいよ、もうひとつのほうを飲んだらいい」 男は優しく笑ってもうひとつのグラスを差し出す。りん子は手を伸ばし、今度こそそれを受け取った。 ――こく。こく。こく。こく。 両手で握ったグラスを高く掲げるようにしてりん子はその冷えた麦茶を一心に飲み込んだ。喉を鳴らすたびにすずしいものが身体をめぐり生き返るように思った。かたわらで、男は黙ってその様を見ている。その目は細められいつくしみに富んでいた。 グラスの中身を、氷を残して全部飲み干してしまうとりん子はようやく息をついた。西日でオレンジ色に染まる室内の隅々にその息の音が響きわたる。 「濡れた靴下、気持ち悪いだろう。脱いでしまったほうがいいよ」 男に言われると突然そうであるような気がした。雨の日の靴の中のように足元が気持ち悪く、りん子は言われたとおり靴下を脱ぎ捨てた。 「スカートも濡れちゃった?」 たずねられたので、りん子は素直にうなずく。 「どうしようかなあ。この家には子供用の服はないし。でも、気持ち悪いよねえ?」 りん子はまたうなずいた。濡れたところに空気が当たると変に冷えるのでできればそれも脱ぎ去るか、替えたいと思った。 男の声ははじめから不思議な響きをもっていたのだ。彼が何かを言うとそれが正しいような気がした。だからりん子はたずねられるたびにうなずき、男の意見に同調していた。 あ、そうだ。男は何か思いついたように言ってもう一度和室を出、それからその手に白いタオルを持ってもどってきた。 「これを濡れたとこの下にいれておけばいいよ。ちょっと、ごめんね」 白いタオルを持った手がすっとスカートの下に這いってくる。かたい手の甲が内ももに触れるとびっくりして膝を曲げたが、男はそれに気づいたふうもなく濡れた部位の内側にタオルを宛てがうとその腕はすぐに引きぬかれた。緊張しかけた身体がふたたび弛緩する。 「上もちょっと濡れちゃってるのか。中、シャツ着てるよね? ブラウスは脱いじゃったほうがいいんじゃないかな」 男はそういうと迷いのない手つきで釦に手を掛けた。上からするすると外されていく釦、止める暇もなくあっという間に開かれてしまったその前面の下に白いキャミソールタイプの肌着が露になる。首もとにシンプルなレースをあしらい、胸の中央の部分に小さなピンク色のリボンをつけた、りん子のお気に入りの一枚だった。 さすがに羞恥心が勝ってりん子はキュッと身体をすくめる。両腕で前を隠そうとすると、しかし男は不思議そうな声で「どうしたの?」とたずねるだけだった。 「はずかしいよ……」 りん子が言うと、男はようやく気がついたように『ああ、』とうなずいてそれから少し笑う。 「そっかそっか、気づかなくてごめんね。女の子だもんねえ。大丈夫だよ、ほら、タオルがあるからそれで隠したら。そうすれば恥ずかしくないだろう?」 有無を言わさぬ笑顔が恥じらうりん子の腕をやや強引に開いたかと思うと、男はすぐにりん子の上半身を包み込むようにタオルを巻いてくれた。スカートの下にさしこまれたものより大きなサイズのそれは手ざわりも良く、裸の腕によく馴染んだ。 ついでに持ってきたらしい布巾でこぼれた麦茶をぬぐう。やや茶色味を帯びた液体がタオルにじわじわと染みこんでいって、台の上は少しの湿り気を残してはいたが一応はきれいに片付けられた。 「ごめんなさい」 こぼしてしまったことが申し訳なくて、りん子は小さくあやまった。男は笑ってりん子の頭を撫でると、いいんだよ、と言い、それからおかわりはいるかとたずねた。当然――そう、当然、りん子はうなずく。 布巾と盆と空になったグラスを持って部屋を出て行く男の姿を見送り、りん子はほうっと息を吐いた。ロリんぼのオジサンに遭った時から、いま初めて人心地ついたという感じだった。 よかった。もう大丈夫だ。この家に逃げ込めばあのオジサンは追ってこられない。 りん子は心から安心してずるずると身体から力が抜けていくのを感じた。障子の影が徐々に暗くなり、室内もまた同じように明度をうしなう。りん子は壁際に寄って電気のスイッチをさがした。 スッと襖が開いてまた男が戻ってくる。先ほどと同じように麦茶のグラスを持っていた。りん子は笑って男に近づくと揃って卓袱台の横に腰を下ろした。 「あれ、タオル落ちてる」 男は床に落ちたタオルを拾いあげる。スカートの下にいれていたものが立ち上がったときに落ちたのだろう。男はりん子を手招きして近づかせると、スカートの裾に手を掛ける。 「ほら、いれとかないと風邪引いちゃうよ」 りん子は黙ってそれを受け入れた。二杯目の麦茶が相変わらず極上に美味しくて、それどころではなかったのだ。肩にかけていた大きめのタオルがはらりと外れて落ちても気にならないくらいにそれはよく冷え、甘かった。 「まだ乾いてないかなあ」 男は耳触りのよい声で暢気そうに言う。そしてタオルをはさみ入れる前にスカートを内側から触って確かめた。 「まだ濡れてるなあ」 男の手のひらがスカートの濡れたしみをさするたびに指の節がりん子の腿に触れる。それはとてもささやかな触れ方だった。 「おじさん? なにしてるの」 あんまり執拗に確かめているので、りん子は男にたずねた。気がつくと男の指がりん子の腿を這い回るように動いている。それでも男は至極真面目な顔をして、たずねたりん子に『ん?』と優しくわらいかける。 「ねえ、それなにしてるの」 「なにって? 濡れてるかどうか確かめてるんだけど」 ひたっ、と男の手のひらが腿に吸いついた。ぞっとしてりん子は握っていたグラスを卓袱台に置く。その瞬間に障子のすぐそばでジワジワジワ、と蝉の声が響きはじめ、にわかにりん子は外の世界を思い出した。 「や、やめてよ……きもちわるいよ……」 「気持ち悪い? どうして? ぼくはただりん子ちゃんが風邪ひいたらいけないと思ってるだけだよ」 「だっ大丈夫です。風邪、ひかない。だから手ぇどけてください」 「どうしたの、りん子ちゃん? 急に」 男の手は、まだスカートの内側にあった。 ぞわりと背が粟立つ。暮れてゆく日に追いつかず照明の灯されない和室はほとんど夜のように暗かった。そのことに、りん子はいまようやく気がついたのだった。 「や、やだやだやだ、やめて、もう大丈夫だよう!」 「ちょ、りん子ちゃん、落ち着いて……静かに!」 「やだあ!!」 ひときわ大きな声を上げて、りん子はてのひらで男の腕をはたいた。 ――何かがおかしい。 なぜ気づかなかったのだろう。この異常さに。 りん子は今や内ももをしっかりと掴んでいる武骨な腕を両手で押しやって追いだそうとした。けれどその手のひらは徐々に深度をましてりん子の中に入ろうとしてくる。強い力で抑えつけられているので下半身を動かすこともできなかった。 外ではもう日は沈みきっているのかもしれない。赤かった影がいつの間にか藍色になって室内に仄暗く滲んでいる。男の表情は、もはや読み取ることはむずかしい。 ジワジワジワ。時間帯を間違えた蝉の声がまだ聞こえる。ジワジワジワ。ジワジワジワ……。 なぜ気づかなかったのだろう。変質者から逃げている少女をつかまえて、家に連れ込むなんてどうかしているのだということに。家に送り届けるか、交番にでも連れて行くかするのが妥当な判断だ。それだのにこの男は、迷うことなくりん子をこの家に連れてきたのだ。 脱ぎ捨てられたブラウスと靴下はもはや手の届かないところにある。恐怖で浮かんでくる涙をりん子は抑えることができなかった。 ついてきてはいけなかったのだ。ひとりで逃げて、家に帰らねばならなかった。たとえその途中でふたたびロリんぼのオジサンに行き遭うことがあったとしても、ひとりで逃げきらねばならなかったのだ。 「いや、やだ、やめて」 「シッ、黙って」 涙がぼろぼろと頬をつたった。どうしよう、どうしよう、と混乱した頭で考えながら、とにかく身をよじって逃げようとする。しかし抵抗もむなしく、抑えつけられた身体はわずかに左右に動いただけで解放などかなわない。 男の指がショーツのゴムにかけられる。ざわっと全身の毛が逆立つような感覚に、りん子は絶叫した。 「いやあ!!!!」 「静かにしろって!」 その声と平手が頬に飛んできたのとはほとんど同時だった。電気の流れるような痛みが走って視界が一瞬明滅する。じいんという音が頭蓋骨の内側に響きりん子は吐き気に襲われた。 男はりん子の肩を押し、畳の上に倒すと膝のあたりに馬乗りになった。身体中を、汗が膜のように包んでいる。りん子はもはや声をあげることはできず、ただ喉が痙攣するような短くか細い悲鳴が反射的に漏れるだけだった。 「ああごめんね、痛むかな? でも騒ぐからいけないんだよ。最初っから大人しくしてくれればぼくも殴ったりしない。だからお願い、静かにしてて」 打たれ、熱を持ちはじめた頬を手のひらで包むと男の声は甘やかすように、ささやくようにそういった。 ざらついた舌が首筋の辺りをしつこく這い回っている。スカートは器用に剥ぎとられ、キャミソールの裾がたくし上げられる。露になった平坦な胸を男はしゅうねく撫でつけた。りん子は乗りかかってくる男の上半身を見上げながら、それでもどうして、この姿は欠片も特徴を帯びないのだろうと、ふしぎに思った。 男の息は荒く乱れる。りん子の耳元の辺りで犬のような呼吸音がくり返された。硬く冷えたりん子の上で、反して男の身体は泣きたくなるほど熱い。触れている皮膚の下ではドクドクと血が流れているのがわかり、猛々しく、それは生物のおたけびのように絶えず脈打った。 ジワジワジワ……ジワジワジワ……。 吐き気は、どんどん増している。すりつけられた男の下半身がリズミカルに震えだし、その衝撃のたびにりん子は胃のものをすべて出してしまいたい衝動に駆られた。それなのに喉元までせりあがった内容物はいっこうその先へ出る気配がない。えづいているりん子に気がついてか、男は落ちていた白いタオルでりん子の口に猿轡をさせた。 「大丈夫だよ。怖いことなんか何も無い」 どうかするとそれは、泣き出した子供をあやすような、ほんとうにやさしげな声だった。獣のようなうめきが時折まざるのを除けば男の手つきもひどくやわらかく穏やかだ。男はりん子の髪を撫ぜ、広く平らかな親指でくちびるのふくらみを押す。胸のあたりを這っていた舌がそろそろと首すじをたどってのぼり、おとがいを通ってそのくちびるに触れた。 「りん子ぉ……」 撫ぜるように、舐めるように名を呼ばれ、声にならない悲鳴とともにりん子のまなじりから雫が溢れる。それはぱたっと畳に落ちて、見えはしないがおそらくは、小さなしみを作ったことだろう。無感動な、それでいて絶え間ない恐怖が身体の内にも外にも満ちていた。 ――どうして。 パタパタッと続けざまに落ちた涙を拭うこともかなわず、りん子は思う。一体、どうして。どうしてこんな目に遭うのだろう。母の言いつけを破って、ロリんぼのオジサンに言葉を返してしまったからだろうか。すぐに帰ってお母さんに言いなさいと言われていたのに、反対方向に走ってしまったからだろうか。 胸のあたりをまさぐっていた節くれだった手のひらはそろそろと下腹を伝い、ふたたびりん子の腿の内側を撫ではじめる。男が自らの履いていたものをずりおろし、りん子は何がおこなわれようとしているのか、それすらも分からぬまま恐怖に目をつむった。 ……ごめんなさい。 唾液が浸みこんだ猿轡を強く噛み、りん子は誰にともなく胸中で呟いた。 ごめんなさい、ごめんなさい。許して、助けて、もうしないから、もう疑わないから。先生のいうことも、お母さんのいうことも、友達のいうことも、全部信じる。だから助けて。おねがい許して。 りん子は何度も何度もくり返した。部屋は真っ暗でほとんどなにも見えなかった。それでも見えない何かにむかってひたすらに訴え、祈りつづけた。助けて、許して、ごめんなさい、許して。誰か、誰か、誰でもいい、誰か、お父さん、お母さん、先生、小山くん、誰か、誰か誰か誰か。許して、ゆるして。どうか助けて。ああ、 …………神様。 ドンッと爪先から脳天を突き抜けるような衝撃があった。この感覚は。そうだ。 かみなりによく、似ている。 (続く) |