リヒテンシュタインが息を切らしながら飛び込んできたとき、ベラルーシは「珍しいお客さんね」と静かにそれだけを言った。赤くなったり青くなったり、常にはない忙しなげな様子のリヒテンシュタインを家の中に招き入れると、温かい紅茶をいれてもてなしてくれた。暖炉から火のはぜる音が聞こえたが、家の中はいまだ冷えている。来客のないときにはほとんど火を入れることはないのだと、やはり静かな声で、いっそ冷たく聞こえるくらいの調でそう言った。
 ティーカップに揺れる赤い紅茶を半分ほど咽喉に流してから、ようやく落ち着きを取り戻したリヒテンシュタインはまず突然の来訪を詫びた。
「いいのよ、どうしたの」
 ベラルーシはおどろくほどやさしげにそう言い、リヒテンシュタインの瞳を覗き込むように首を傾けた。相変わらず感情のうかがえない表情ではあったが、きれいな目をしている、とリヒテンシュタインは思った。
「あの……」
「なに?」
「……ベラルーシさんとロシアさんは、ご兄妹だったとうかがっているのですけれど」
「ええ、そうよ」
「でもベラルーシさんは、ロシアさんのことを」
 ああ、とベラルーシは何かに思い至ったようだった。冷えた硬い表情がいささか柔らかくなる。リヒテンシュタインはなぜだが急に恥ずかしくなり、思わず俯いてしまった。
「それで私のところへ来たのね」
 リヒテンシュタインはそう言われると、もはや何も答えられなくなった。
 実を言うとこうして持て成されていてさえ、自分がどうしてベラルーシのところへやってきたのか、よく分かっていなかった。ふたりはほとんど交流もなく、挨拶以外の会話などしたこともないような、そういう間柄であった。リヒテンシュタインは兄の隣にいながら、同じようにしてロシアの隣に立つベラルーシを見て知っている程度のもので、およそ心配事を持ち込むような信頼関係は築かれていなかったはずである。
 ベラルーシは気をまわして、乾いたクッキー様のものを茶請けにと出した。口に含むとぼろぼろ崩れ、そのくせ噛むと硬い、そういう菓子だった。オーストリアの上質な菓子を頻繁に食しているリヒテンシュタインにとって、それは必ずしも美味であるとは言い難かったのだが、しかし腰かけているソファも藁詰めのような座り心地で、今よりも生活の苦しかった――スイスに救ってもらわなければ己など消滅していたかもしれぬというほどに――その頃のことを思い出した。
 世界は今なお、病んでいるのかもしれない。
 救われ、優しくされ、共に生きることのできる生涯を与えられたリヒテンシュタインに、それは失念しかけていた冷たさであった。
 リヒテンシュタインはベラルーシをそっと窺った。大きく丸い瞳にぶつかって、もしかしたら分かり合えるかもしれない、教え導いてくれるかもしれないと期待を寄せてここへ来たのだ、と唇を結んで考えた。
「何かを好きだと、愛しいと思う気持ちには、色々な種があるのでしょうか」
 ベラルーシはまっすぐにリヒテンシュタインを見返した。胸部が呼吸に合わせて上下して、この問いかけのために彼女がいったい何をどこまで察したかということが知られてくるようだ。
「それで、私のところへ来たのね」
 ベラルーシは繰り返した。
 表情は相変わらず淡かったが、その声音は感動したようにかすかに震えている。リヒテンシュタインは小さくうなずいた。
「そう」

*

 ――今はベラルーシ共和国という名で、ひとつの国として存在している。
 小さな家の中ベラルーシは一人で暮らしていた。暖炉に火を入れず、曇天から雪が降っているのを窓外に眺めると、連邦時代のことを思い出す。広大な家。ともに暮らす人々。兄さん。
 ロッキングチェアに腰掛けて古い物語を読むような心地のまま、ベラルーシはまどろみかけた。瞼の裏に、未だ目にしたことのないヒマワリという植物の花が群をなして林立しているさまが浮かんだ。
 ベラルーシは大西洋からの西風の影響もあり比較的温暖な国である。隣国のロシアほど冬の寒さも厳しくはなく、農作物も育ちやすい。どうして一緒になってくれないのかしら、と呟いたのを拾ったイギリスに「お前なんかと一緒になっていいことなんて一つもないからさ」と嘲られたことがあったが、しかしベラルーシは、そんなことないのにと胸中で思った。
(だって兄さん、寂しくないの)
 連邦時代のにぎやかな生活を思い出すことはないのだろうか。誰がいなくとも、兄さんがいないと私は寂しい。それはともにあることの利点にはなり得ないのだろうか。
 うつらうつらと椅子を揺り、肘掛けに凭れて、ベラルーシは暗い部屋の中をぐるりと見渡した。ロシアがこの家に唯一残してくれたマトリョーシカが空ろに笑っている。小さく描かれた唇の色が闇の中に煌煌と光るように赤く、あやしく、ベラルーシを夢の底へ突き落とそうとしているように感じられた。
 独裁国家、共産主義者、と口汚く罵る声が耳の中に木霊する。

*

 リヒテン、と愛称で彼女の名を呼ぶスイスの声が異様なほど緊張していると気がついたのはいつのことだったろう。いつも通りの朝、いつも通りの食卓で、それは突然もたらされた。
 灰色と暗緑色が同居する不思議な瞳の中央の鋭利な孔がある瞬間に切なさを帯びる。それは確かな熱量を持ってリヒテンシュタインに触れ、そのたびに、云いようのない焦燥めいたものが身体の中に生まれるのを感じた。明らかでないその感情はリヒテンシュタインを困惑させ、不安を与えた。今ここにあるあたたかいものが突如形を持って、重力に引かれ掌からこぼれおちていくような。指の隙間に残った残滓だけが、懐かしみの中でリヒテンシュタインを嘆かせるような。しかしそれでいて決して不快でないことがまた、リヒテンシュタインを戸惑わせるのだった。
 あるとき、ジュネーブで開かれる会議へスイスが赴き、それに追従したリヒテンシュタインは会議が終わるまでの間、扉の外の革張りソファに腰掛けていた。待合室様にしつらえられたその空間で何を思うでもなくただ時が過ぎることを待っていた。ひとりになると不思議なほど兄の姿が思い出されるので、リヒテンシュタインは努めて、思考を鈍らせる。
 『兄さん、』
 そのとき、突然聞こえたその呼びかけに、リヒテンシュタインは心臓を弾ませた。
 見るとそこにはやや遅れてやってきたロシアと、聞きわけなく貼りついてきたらしいベラルーシの姿があった。ベラルーシの話は、これまでも何度か耳にしたことがあった。あのロシアが手を焼いているというので、彼女の存在はさまざまな場所で面白おかしく語られていたのである。商談などでやってくる他国が、世間話ついでに、「そういえば知っているか、ロシアのやつ……」といった具合で、その流れの中でベラルーシの名を出す。ちょっとした、有名人であった。
 やはり素気無く追い返されたベラルーシはリヒテンシュタインのいる場所よりやや離れた、会議室にもっと近いソファに、少し乱暴に腰を下ろした。きれいなブルーのドレスの裾から伸びる足を持ち上げて、膝を抱き、「兄さん」と独りごちる。静まり返ったその場所に、澄んだ声が波のように広がっていくさまが、まるで目に見えてくるようであった。
 そのときの寂しそうな横顔が、己の心情とよく合致した。リヒテンシュタインは初めて、自分が心の中に飼っているものの存在を、疑うことになったのである。

*

 とろとろとした小さな火がくべた薪に点るようになると、その灯りでふたりの頬はうっすらと橙色に染まった。血色の悪いベラルーシも今は紅潮したように温かい色で艶めいている。ベラルーシは細く息を吐き出すと半分だけ伏せた瞼をかすかに震わせた。
「兄のように思っていた人を、別のところからいとしいと思ってしまったら引き返すことは出来なくなっているものよ。もう十分すぎるくらい心は積もっている。だって形が違っただけで、ずっとずっと好きだったんだもの、そうでしょう?」
 リヒテンシュタインはベラルーシの青灰色の瞳をじいっと見つめた。そこにゆれる光。
 孤独ではないのに寂しい。静穏であるのに烈しい。いとしいと口にするのに、救われぬほどかなしい。それがあまりにせつなくて咽頭が痛んだ。咳きこみそうになるのをようやくこらえながら、リヒテンシュタインは、
「ベラルーシさん」
と、いっそ焦がれるくらいの思いで呟いた。
 それから細い腰に抱きついて両腕に力を込めると、彼女の身体がやわくたわむ。驚くほど華奢で思わず後ずさってしまいそうになるほどだった。
 ベラルーシの掌がリヒテンシュタインの髪を撫でて、つむじのあたりに軽くキスをされる。なんていとしいのだろうとリヒテンシュタインは思った。
「きっと初めから、あの人が兄だったことなんてなかったんだわ」
「ベラルーシさん」
「私のところへ来てくれてありがとう。私のこれを、認めてもらえて、うれしかったわ。リヒテンシュタイン、間違っては駄目よ。ちゃんと考えなさい。あなたの心はどこから湧いてきている? それはいつから? どうして? 大丈夫よ、きっとわかるから。そしてそれは、絶望では無いはずだから」
「はい、ベラルーシさん」
 ありがとう、と、かすれた声でリヒテンシュタインは言った。応える代わりにベラルーシはほほえんで、もう一度リヒテンシュタインにキスをした。彼女をおさなく見せる大きなリボンがすこし揺れ、その寂しそうな睫毛には金色の髪がかかっている。
 苦しくはないのですか。消してしまいたくはないですか。こんなものを知らなかったころまで戻りたいと思うことはないですか。
 心の中でいくつもの問いを叫びながら、しかしベラルーシの答えなどほとんど分かり切っている、だからリヒテンシュタインは無言のまま息の詰まる音だけをかすかに鳴らして、ベラルーシのたおやかな身体をもう一度強く抱きしめた。そのとき彼女の双眸から涙がこぼれたらしいことを、リヒテンシュタインは痛みすら伴うせつなさの中で感じ取った。
「風邪を引いてしまいます。暖炉には火を入れるようにして下さいまし」
(その涙はきっと無上の美しさを湛え、ただ一人のために流され続けるのだろう)
「ええ、そうね」
 猛々しく燃えていた薪は崩れ、火の灯る灰が舞った。