ハンガリーのその、妙な振る舞いがあらわれはじめたとき、ギルベルトはまだ世界を知らない無知な子供だった。いや、ギルベルトが子供だったのは、世界を知らなかったからではない。そもそも、世界を知ろうとする心を持たなかったのだ。 その眸が捉える視野だけを、その剣の切先が触れるものだけを、世界なのだと思っていた。そこは緑に満ち、光がやまず、食うにも寝るにも困らない。このときのギルベルトはまったく、飢餓というものを忘れていた。餓えることはなかった。食べるものにも、戦場にも。望むべき戦いの炎が、ギルベルトの心を温もらせていた。 そう、だから当然だったのだ。思えばハンガリーは、もう疾うの昔に子供ではなくなっていた。子供ではいられなくなっていた。 世界は冷徹だ―――。 ギルベルトはそれを、つい最近になってようやく知った。 けれど、ハンガリーは? 世界が冷徹だということを、もうずっと昔から知っていたのだろうか。世界を知っていたハンガリーならば、それも大いにあり得るだろう。ならば。ハンガリーはずっと生きてきたのだ。慈愛のない、ただそこにあるだけの世界。けれどどうしようもなく彼らを縛る重力の境界。それはいつから進行していたのだろう? やはり、ギルベルトには分からない。 彼は国ではなかった。国という存在が、人の形をとっている。そういう事実がこの世界で横行していることは、誰にも知られていた。けれど彼は国ではなかった。彼は生まれながらに国土を持たなかった。 ギルベルトと呼ばれている。自分はマリア修道会と呼ばれるよりも、ドイツ騎士団と呼ばれるよりも、ギルベルトと呼ばれるとき、自分自身が呼ばれているのだと強く認識する。それが、彼の特殊性だった。国でありながら国でない。それはその以後――国土を得てなお変わることはなかった。マリア修道会で、ドイツ騎士団で、プロイセンで、東ドイツで、そのすべてでありながら、彼は一徹、ギルベルト・バイルシュミットだった。 丘の上の草は水分を多く含有している。葉が柔らかく背の低い地衣類ばかりがよく育ち、そこはいつまでも見晴らしがよい。石を敷き詰めて区画された圃場の不思議な文様を、いつだって一望することが出来る。そのくせ丘の中央には一本の巨木が植わっており、陽射を免れることも背を凭れさせて休むこともでき、つまるところこの丘はギルベルトにとっての安息の地だった。何かがあればこの場所を訪うし、何もなくてもこの場所を訪う。そうして癒されることを知っている。 身の内に、あるいは身の周りに、起こった変化はしかしギルベルト自身に何の変革も齎さなかった。ギルベルトは何が動いてゆく気配というものを、至極客観的にみることが出来た。聞いていた話では、そういうとき国というのは決まって体調を崩すものらしい。ギルベルトが自身の不調に鈍感なのか、あるいはやはり、国という存在と何かが決定的に異なるのか、そんな神憑り的なことは分からなかったけれども、とかくギルベルトは健康そのものだった。 だからギルベルトがこの丘にやってきたのは、己の内情に頓着しない、その無神経さを誰かに指摘されるのが煩わしかったからだった。ここならば誰かに見咎められることもなく、あるべき場所に帰るとき少しばかり神妙な顔をしていれば何事も都合のいいように解釈してもらえるだろう。そう思っていたのだ。 丘はギルベルトに相応しく健やかで整っている。大樹の幹に背を寄せて何をするでもなく、少し低くなった陽の赤みを増した色を眺めながらぼんやりと風の音を聞いていた。 目蓋を閉じると不思議な浮遊感がある。昼のような夜のような曖昧な空間の中に自分の姿が宙ぶらりんになっている。そういうイメージ。これからのこと、自分のこと、自分以外の誰かのこと。ぼんやりと物を思うなど滅多にあることではないから、これが不調といえば不調なのかもしれなかった。 思考が煩わしくなって草の上に身を投げると、ついこの間、どうしてか懐いてきた小鳥がギルベルトの髪を食みにやってきた。されるがままにしていると一丁前に鋭い嘴が頭皮を刺激する。いてっ。ギルベルトが思わず言うと、小鳥は得意そうに舞い上がった。ギルベルトは溜息をつく。 ――自分以外の誰かのこと。 そういうふうに言っても、結局それはあの少年のことに他ならなかった。国である彼らに対して、こういう言い方が正しいのかどうかはともかくとして、子供の姿をした、年齢の近い国≠ノ出会って係わり合ったのは、これが初めてだった。 ハンガリーという。歴とした国のひとつだ。そういう意味では、ギルベルトとは違う存在だった。ハンガリーは美しい少年だった。ギルベルトの、ほとんど色素のない肌や髪と違って眩しいほど日に焼けた肌と栗色の髪、そして翠の眸を持っていた。 ハンガリーは民によく愛され、ハンガリーも民を愛しているように見えた。それは紛れもなく幸福な風景に思えたし、そうであるハンガリーに羨望を抱いたことも、ないわけではなかった。ギルベルトはハンガリーに身を置いていたが、しかしこの場所を還るべき土だと思ったことは、一度たりとてない。それはまさしく羨望の裏返しなのかもしれなかったが、本当のところは自分でもよく分かっていない。 (どうしたいのだろう、おれは) そして、何をすべきなのだろう。それが分からない。国である彼らには、国土を護るという確かな使命があった。しかしギルベルトは国ではない。国土を持たない。 ギルベルトはゆっくりと、徐々に暮れてゆく丘をじっと見ていた。丘が斜陽によって赤く染まる。それはいつも、火の放たれた戦場を思い起こさせた。 (……国ではない) そう。国ではなかった。だからハンガリーだけではない。この世界のどこにも、ギルベルトの還るべき土など、在りはしないのだ。 ひどくされた。ギルベルトはしたたかに殴られた顔面を癒すように撫でさすりながら歩いていた。目を縁どるように青あざが出来ていて、それが血流に合わせてじんじんと痛んだ。自然、足はあの丘に向かっている。ぼろぼろの姿など人にさらすのは癪だったし、これ以上の暴力が恐ろしいのもあった。足が逸り一刻も早くあの丘から畦を見下ろしたかった。 息も切れるほど早足になって、しかし決して駆けることをしなかったのがギルベルトのなけなしのプライドだった。麓にたどり着くころには耳障りなほど呼吸も乱れていたが、それは決して過剰な運動によって乱されたものでないことは明らかだった。これは、怯えの呼吸だ。丘を登る足はしばしば縺れ、何度も転びそうになる。はやく、はやく。ギルベルトはそればかり懸命に考えていた。 ようやく丘の頂上にたどり着き、しかしそこにあるはずのないものを見て、ギルベルトは目を眇めた。 あいつがいる。 そう思うのと、その陰影の濃さに確証を失うのとはほとんど同時だった。 孤立する木の幹に手を添えて人影がそこにあるのは確かだった。影は微動だにしない。近づくなり、声をかけるなりすれば、その正体は知れるだろう。ギルベルトにはそれが出来なかった。 影はギルベルトの気配に気付いたようで、ちらりとこちらを窺う。しかし逆光で影は影のままだった。杳いまま、果たしてそれが思考を持った生き物なのかどうかを疑いたくなるような得体の知れなさ。ギルベルトは相変わらず竦んでいる。影もまた、動く様子はない。 この膠着状態を解いたのは、意外にも第三者の介入によった。近頃ではギルベルトの髪をむしることを覚えたあの小鳥だ。小鳥は場違いに間の抜けた声、ピピ、と笛のような高い音で啼いて、影の掌――おそらくは掌――の上に収まった。 「ハンガリー?」 ギルベルトは尋ねた。そして歩み寄る。声で分かった。影はその瞬間に凹凸を見せ始める。あれは、ハンガリーだ。その指先に弄られるのを、小鳥は大人しく受け容れていた。 「何してるんだよ、こんなところで」 それを自分が言うのは可笑しいと思いながら、ギルベルトは訊かずにはいられなかった。この丘を訪れる者など、長らく自分以外にはいなかった。 ハンガリーの鼻の形までを明瞭に認識できる距離までやってきて、ようやくハンガリーが笑っているのが分かった。それはとても、子供らしくない笑い方だった。穏やかで、でもどこか愁いを孕んだ笑み。 「ひどい顔」 ギルベルトは一瞬、ぎくりとした。 「お前んとこのやつにやられたんだよ」 恨みがましく言うと、 「知ってるよ」 とすかさず応える。悪びれているふうでも、同情しているふうでも、嘲っているふうでもない。ただハンガリーは、ギルベルトが拵えたよく目立つ痣を凝視していた。この夕暮れに、それがどれほど正確に知覚されたかは分からない。ギルベルトの鼓動は変にうるさく鳴っていた。 「痛いか」 「痛いに決まってんだろ」 「ふうん」 他人事のように言って、また傷を見る。ギルベルトは眉間に皺を寄せた。 「ギルベルト」 「……何だよ」 ハンガリーにそう呼びかけられて、ギルベルトはまた、背が冷える感覚に襲われた。しかしその正体が知れない。ギルベルトだ、おれは。でも、なぜこんなにも奇妙な感じがするのだろう。 眼球が熱い。焼け焦げているみたいだ。このままでは見えなくなってしまう。ギルベルトはちらりと夕日を見た。日に焼けて、見えなくなってしまう。――夕日は赤い。橙よりももっとずっと、赤く杳い。 (そうだ) ギルベルトはついに思い至った。夕日の異常なまでの赤にその姿を染めながら、違和感の正体を知った。目蓋の裏が真っ白になる幻覚。それと、咽喉の詰まる感じ。 (いつからだ……) とても、思い出せない。つい最近だったような気もするし、初めて出会った時からそうだったような気もする。わからない。気付けなかった。――いつからだったろう。ハンガリーが、自分のことを「ギルベルト」と呼ぶようになったのは。 いつからだったろう。それはギルベルトが、自分自身を国という存在の一画から退けたときよりも早かったろうか、遅かったろうか。 ギルベルトはハンガリーを視た。ハンガリーも、ギルベルトから視線を逸らさない。ハンガリー、と言いかけるが、その続きが出てこない。何を言えばいい。何も言う必要はない。ハンガリーがすっと息を吸った。 「おれの、名前を教えてやろうか」 そうして先に口を開いたのはハンガリーだった。秘密を話すように慎重で、静かな声音だ。「名前、」とギルベルトが呟くのとほとんど同時に、ハンガリーは告げる。まるで託宣のようだとギルベルトはどこかで思った。 「エリザベータ。エリザベータ・ヘーデルヴァーリだよ、ギルベルト」 ハンガリーは殊更に、ギルベルト、という音を強調した。丘を吹きさらす風が凪ぐ。ハンガリーの声以外に、何も聞こえなくなった。 「女みたいな名前だろう」 ギルベルトは肯く。 「女みたいで、好きじゃないよ。おれもね。けどいいんだ」 「……どうして」 「誰も呼びやしないから。人を真似た名前なんて、意味を持たないよ」 ハンガリーは笑った。ギルベルトは何かを打ち砕かれたような気がした。 「……ならどうして、おれをギルベルトなんて呼ぶんだよ」 口にして初めて、ギルベルトはそうだ、と思った。意味を持たないというなら、何故。そうされたほうが、自身を認識するなんて誰にも話したことはなかったのに。ハンガリーはすこし沈黙して、ギルベルトを射るように見ていた。そして口を開く。低い声が滑り出る。 「おまえがなり損ないだからだよ、ギルベルト。生まれ損ない、死に損ないのバイルシュミット。おまえは決して、国ではないよ」 「――」 「分かっているんだろう。自分でも。おまえは国じゃない。国に限りなく近い存在だけれど、決して国ではない。そうだ、あいつ――神聖ローマも、おまえとよく似てる。だってそれじゃあ、おまえの土地はどこにあるんだ? おまえの民はどこからどこまで? 何のために生きる? どうしたら消える? 何一つ、おれたちと同じではあり得ない。だからおまえは国ではない」 ハンガリーは早口でまくしたてた。 「なら、どうしておまえは生まれた? どうしておれたちと同じに、果てのない命を与えられた。おまえの護るべきものはどこにあるんだ。なあ、ギルベルト、それってあんまりだ。あんまりに理不尽で、可哀相だ」 翡翠色の眸が夕日を映しこんで不思議な色彩に変わっていた。ギルベルトを覗き込むハンガリーの眸は大きく見開かれ、その艶めいた表面にいびつに歪んだ自身の姿が見えた。 「なあ、ギルベルト、そうだろう……」 そしてハンガリーは静かに、しかし力強く、ギルベルトの両腕を掴んだ。ギルベルトはハンガリーの、脱力して重くなる身体を辛うじて支えた。その細い首が赤い海にさらされる。こんなハンガリーを見たのは初めてだった。 「ハンガリー、おまえ――」 (嘆いているのか。国である、己を) 「おまえといるのは楽しかった。おまえは頭が悪いけど、同時にとても頭が良い。おまえと戦うことは、それは敵であっても味方であっても、純粋に、とても楽しかったよ」 座り込んで、木の幹に背を預けながら、まるで遠い昔を懐かしむかのようにハンガリーは言った。 「おまえのいる戦場は、いつも真っ赤なんだ」 燃える。焔の色。あるいは血の、夕焼けの。人を薙ぎ、一秒ごとに孤独になってゆく。土埃と蹄の音。金属の交わる冷えた響き。 孤独になる。ひとりになる。誰もいなくなる。 いつだったか。地に突き立てられたつるぎが、十字架のように見えると言っていた。そこには必ず泥みかけの太陽があって、人の死を隠しながら罪の影ばかりを濃く深くする。……ハンガリーはその戦場の真ん中で耳が聞こえなくなったみたいに呆然として遠くを見ることが多くあった。声をかけることすら躊躇われるほど切ない瞳で、赤い日を見る。そのときのハンガリーが何を想っているのかなど、今日までのギルベルトは考えたこともなかったのだ。 「初めて見たときからそうだった。初めて――この丘でおまえを見たとき。あのときも。この丘はおまえとひとつになって、赤く染まっていた」 そうではないのに。戦場はいつだって赤いものなのだ。だからそれはギルベルトではなく戦場と結びつくべき色だ。それなのにハンガリーはこの瞬間でさえ、あの瞳――あの太陽を見つめる瞳で、ギルベルトの赤い虹彩を見る。 「ハンガリー……」 ギルベルトはぎゅっと目を閉じる。……国は。ハンガリーは、きっととても孤独だった。 ――どうして。 ギルベルトは、思った。 おれはどうして、ギルベルトだったのだろう。ギルベルトとして生まれてきてしまったのだろう。替わってやりたい。孤独になるのは、いつだっておれであればよかった。 ああそしておまえは。おまえはどうして、エリザベータではなかったのだろう。どうしておまえが、人の消えてゆく赤い丘でひとり感情を鈍麻させなければならなかったのだろう。血のような赤に佇みながら、ただ己を己であるがゆえに否定しなければならなかったのだろう。 残されてしまうことを、受け容れなければ、ならないのだろう。 「……出て行くんだろう」 ハンガリーの問いに、ギルベルトは肯いた。 「ならここは、本当に誰もいない丘になってしまうんだな」 ハンガリーの表情はもうほどんど見えなかった。稜線の向こうに太陽が消え、孤独の夜が忍び寄る。ハンガリーは膝を抱く腕を、もっと強くした。それが分かった。 ――国になりたい。 ギルベルトは、この赤い世界に生まれて、初めてそれを思った。ハンガリーの小さくまるまった、そのなめらかな背を見つめながら。 国になりたかった。この曖昧な存在を脱け出して、ハンガリーと同じものになりたかった。 仕方ない、と、言ってやれる生命に、どうしてもなりたかった。 「ギルベルト」 そう呼ばれれば返答をしなければならない。なぜなら彼は、ギルベルトだったから。 「けれども」 ハンガリーは力無く首を垂れ両手で耳を塞ぐ。 「おれは、その色を、嫌いではなかったんだよ……」 俯いた眸から、雫がこぼれおちたのが分かった。ギルベルトはハンガリーの指を取って、伝播してきたかなしみに眼球を濡らす。 ハンガリーの諦観を否定する術を持たない自分を呪った。たしかに丘は終わっていくし、ハンガリーはまた孤独になるだろう。ギルベルトは決して、孤独ではないのに。 「ハンガリー、」 「うん」 二人の声は等しく涙に濡れている。 「楽しかった。おれも」 「うん」 「おまえと一緒に、いっときでも一緒に、いることができて」 「うん」 それがどれほどの重力を持って、ハンガリーに伝わるかは分からないけれど。 「ありがとな」 「……うん」 ハンガリーは小さく、首を振った。 ギルベルトは、視界を分断する長く広い灰色の壁をじっと視た。一分の隙もない、流動性の欠片もない、不動の壁。壁の向こうに太陽が沈んでゆく。向こう側は、西。壁の向こう側から、それは決して近くない、ずっと遠くのほうで、しかし確かに人の声がする。 終わりの気配というものはいつも赤い色をしている。ギルベルトはそれを知っていた。教えてくれたのはハンガリーだ。あるいは、エリザベータだった。 胸がやけに早鳴っている。何かの気配を感じている。耳を塞ぎたいような気持でいっぱいだった。しかし今はそれをしてはならない。 ギルベルトが立ちすくんでいると、地響きのような音が大きくなった。轟轟という音。内から鳴っているのか、外から鳴っているのか、もはや分からない。だが確かに大きくなった。 (――世界は冷徹だ) ギルベルトは鼓動を落ちつけようと深く息を吸った。また、吐いた。 ――世界は冷徹だ。 (けれども) けれども。 壁に一筋の亀裂が走る。あの赤い色が、まなうらに甦った。 |